ナ、ナ、ミーン!


私の推しは、”ななみん※”こと七海建人だ。悟や悠仁への愛に隠れてはいるが、私にとって五条悟はもはや神であり、悠仁はかわいい息子なので、そこんとこはちょっと見逃して欲しい。結婚するならもちろん”ななみん”なんで。

ななみんは呪術廻戦の中でも屈指の人気を誇るキャラクターだ。その人気の原動力のひとつは、虎杖悠仁に”ナナミン”と呼ばせたことにあると私は睨んでいる。これを考えた作者は天才だよ。七海を一気に親しみやすい愛すべきキャラへと変えたのだから。

考えてもみて。渋谷のビルの屋上で悠仁が叫んだ言葉が「七海さ~ん!」だったらどう?「七海せんせ~!」ならまだかわいげがあるけど、「ナ、ナ、ミーン!」の破壊力には到底及ばないんじゃないかな。もっともこれは海外でも人気が高いことの説明にはならない。が、ニュアンス的なものは何となく伝わるんじゃないかと、とりあえずは思っておくことにしよう。

私にとってのななみんの魅力は、あのツンデレな感じかな。クールで現実的なのに、本来の優しさが随所にはみ出ちゃうのがカワイイ。なんだかんだ言いながらパン屋のおねえちゃんを除霊してあげるし、悠仁を術師だと遠回しに認めるとこなんて、泣きそうになったわ。

でも、渋谷での最期の場面は泣かなかった。あまりの残酷さとショックで泣くことも忘れた。ななみんの死とそれに続く野薔薇のシーンで私は完全にフリーズする。コミックスでもアニメでも。テレビ放送直前にコミックスがアニメを追い越していたのだが、もしそうでなかったら、アニメを観ながら私の心臓は止まっていただろう。

あれから何度かこのシーンを目にしてきたが、辛すぎて痛すぎて、泣くどころではなかった。つい先日、映画の “渋谷事変X死滅回遊” を観るまでは。この時、ななみんに後を頼まれて初めて泣いた。映画館でボロボロ涙を流す自分に驚いた。

かつては”聖地巡礼”とやらをする人たちの気持ちがよくわからなかった。が、呪術廻戦と恋に落ちてから、ようやくその気持ちがわかるようになった。悠仁やななみんが走り戦った渋谷の街を見てみたい、歩いてみたい。そんな気持ちがどんどん大きくなってゆく。ななみんが最後の瞬間に夢見たマレーシアのクアンタンに行くことは夢のまた夢だが、渋谷ならもしかして…なんてことをついつい考えてしまうこの頃だ。

今から10年か20年後、もしあなたが東京メトロの渋谷駅構内で花束をささげ祈る老婆をみかけたら、そっと寄り添い共に祈りをささげてもらえれば幸いだ。

※作中で”ナナミン”と呼ぶのは虎杖だけで、ご覧の通り、表記としてはカタカナが正解。でも私は基本的に”ななみん”とひらがなで書くようにしています。この方がより優しく愛情も伝わる気がするので。その点、どうかご容赦ください。

死滅回遊に死す


映画観てきた。
渋谷事変特別編集版X死滅回遊先行上映。封切からちょうど1週間。平日の朝イチとはいえ、先月の呪術廻戦0再上映に匹敵するほどガラ空きなのに、特典のビジュアルボードはしっかり無くなっていた。休みを取って、あえて平日を選んだのだが、さすがに遅すぎたか。

Googleの検索画面を開くたびに、トップ付近に現れる映画レビューのいくつかをついつい読んでしまっていた。人によって評価はバラバラ、というか、そもそも呪術廻戦が好きな理由も、恐らくはそこに起因する観点も、見事なくらいに違うことを今更ながらに実感した。はしょりすぎ、アニメオリジナル多すぎ、よくまとめた、引きのアングルばっか、渋谷事変の主題歌がいい感じで入ってた、などなど。チェンソーマンに比べたらカス、なんてのもあったな。目を通したのはほんのわずかなんだけど、次に続く死滅回遊への期待という点は共通していたように思う。

もともとTV用のアニメをまとめたものなので、劇場用としての出来など期待しようもない。「初めて観る方にもお楽しみいただけるような…」って、楽しめるわけないじゃん。この映画はあくまで呪術廻戦を観た(もしくは読んだ)こと前提で、なおかつ呪術廻戦が好きな人のために作られたものだ。早く観たいし特典も欲しい。公開直後に人が集中するのは当然だよね。

こんなことを書いている私はといえば、正直な話、呪術廻戦を投げ捨てようとしたことが一度だけあって~いや、モジュロの件は当然除外だよ~それがこの死滅回遊編の始まりなのだ。死滅回遊のルールが提示された時の「???!」は忘れようにも忘れられない。「なんじゃこりゃ、全然違う話になっちゃったじゃない。プロレスかよ!?」
ものすごいショックで、大人買いしたコミックス24巻すべてを投げ捨てようと~比喩でじゃなくて本当に~物理的に投げ捨てようとした。手を止めた理由は、手にしていた24巻目の表紙が、意味不明に大好きな華ちゃんだったという奇跡と、ここまで来て止めるのかという意地にも似た感情だった。

そこで私は呪術廻戦を追い続ける二つの理由を半ば無理やり作り出した。

1.とにかく悟が箱から出てくるまでは死んでも死にきれないでしょ
2.プロレスリングがいつまでも続くわけがない。最後にはきっと悠仁が強くなって宿儺を倒すに違いない。オカンとしてそれを見届けなくていいのか

以上の2点を持って私は呪術にしがみついてきた。1についてはファンの方ならご存じの通りの結末となったが、コミックスで後追い派の私は、最後までずっと悟の復活を期待して追い続けることができた。その一方で2の方は厳しかった。本当に苦しかった。映画でもわかるとおり、死滅回遊以降の主役は乙骨に奪われた形で、悠仁は乙骨やこれから現れる猛者たちの下で、サポートのような役回りとなる。待っても待っても活躍とは程遠く、最後にやっと…どうなったんだろ。

呪術廻戦の結末については、悠仁・恵・野薔薇の3人が揃う、希望のある終わり方に賛辞を贈りたい。残念ながら悟が戻ることはなかったが、バッドエンドもささやかれる中、よくあの形にしてくれたと感謝している。ただ、あまりにも淡白だった感は確かに否めない。察するに、時に非難を浴びながらも描き続ける苦しみからようやく解放され、作者の心は既に次の世界へのワクワク感でいっぱいだったのではなかろうか。まあ、いつもの勝手な妄想だけどね。

レビューにもあったように、映画では渋谷事変の大部分のシナリオはカットされ、次の死滅回遊も然り、更に原作にはないシーンも追加されているのが目を引いた。ただ、決して消してはいけなと思う大事なセリフはしっかり残されており、追加されたシーンは渋谷事変後の悠仁の行動と心を映し出す、原作では描き切れていない部分に焦点を当ててくれたことを評価したい。物語をギリギリまで絞ったことにより、セリフのひとつひとつの重みがストレートに心に響き、ストーリーのど真ん中にある本筋、少なくとも私がそう信じている根っこの部分を再認識させてくれた。虎杖悠仁はこれからも人を助けて生きていく。じいちゃんの言ったとおりに、信じる仲間たちと共に。呪術廻戦の主人公は虎杖悠仁だと、私にもう一度信じさせてくれてありがとう。私やっぱり呪術廻戦大好きやわ。

アニメ死滅回遊編がどんな風に進むのか、原作どおりなのか、そもそも最後まで作られるのかすらわかっていなかった。が、今回の映画のパンフレットには「死滅回遊前編」という記述があるので、多分最後まで作ってくれるのだろう。映画を観る限り、私の想像以上に展開が早く、ひょっとしたら一気にラストまで突っ切ってしまうのかも知れない。どうなろうとも、ここまで来たら最後まで伴走するつもりだ。最後まで走り切って、そこできっちり終わって欲しい。アニメだけは。お願い。

六十数年後のことなんて、もう知ったこっちゃない。これからの死滅回遊は、悠仁にとっても私自身にとっても苦しさの連続であることは承知の上だが、私にとっての大切な本筋を見失うことなく、最後の呪術廻戦を楽しんでいこう。死滅回遊で私もサイトも死ぬかどうかなんて、その時になったら考えればいい。

記憶の書き換え

呪術廻戦は時系列が複雑で、ストーリーを追う途中、コミックスをさかのぼって読み返すことが何度もある。いつか自分なりに時系列や全体図をまとめてみたいと思っていた。一緒に話せる仲間がいれば、そんなことも考えず、案外それで満足していたかも知れない。が、私の場合は常にひとり。想いをぶちまける場所としてブログを始めたのを機に、せっかくなので物語のタイムラインも載せられたらと考えた。

誰に頼まれたわけでもない。好きでやっていることだから、作業自体はすごく楽しい。けれども仕事と通勤、家事の合間にブログを書き、週末の可能な限りの時間を使いコミックスや関連本をめくり返すのは、想像以上に大変だった。

遅々として進まない作業に半ばイラつきながら、気づいたことが一つある。それは私の記憶がかなり間違っているということだ。コミックスの欄外やオマケのページのどこかにあったはずの情報が、どこにも見当たらない。探していたシーンが思っていたのとは全く別のページにあり、前後の繋がりやセリフも私の記憶とは違っていたことに愕然としたこともある。私の記憶力はここまで落ちてしまったのか。

多分それは歳のせいじゃない。人の記憶は変容していくものだと聞いたことがある。思い出すたびに再構成され、その過程で変化したり書き換えられたりしていくのだと、さっきAIも教えてくれた。あれだけ読み返していても、こんなにも変わってしまうのか、記憶ってやつは。となると、私がキャラクターや作品自体に抱いている印象も、誤った記憶に導かれていたものである可能性もある。時系列を整理する前に、今一度物語をじっくりと読み返し、呪術廻戦という作品を見直してみるのに良い時期なのかも知れない。

乙骨ぎらい


乙骨が好きになれない。
理由の一部はひとつ前の投稿にあるが、実はそれだけじゃない。呪術廻戦0の乙骨は決して嫌いなキャラではなかった。だが、長い沈黙の後に復活した彼は、あまりに別人だったのだ。

上層部側についたかのように見せかける、バレバレだが否が応でも期待を煽る登場の仕方。強いってことは一目瞭然だけど、落ち窪んだ目と表情、怖すぎるやん。死神かと思ったぜ。

さらに問題なのはその内面。ミゲルと行動を共にして、陽気なアフリカン気質が多少は移ったのかと思いきや、むしろその逆。ひょっとしたら想像を絶する修行でもして、最強になった自分を自覚したのであろうか。弱々しさや謙虚さのようなものが一切消えており、伝わってくるのは最強としての自信だけだ。虎杖との一騎打ちになった時、私にはそれが “上から目線” としか捉えられず、カチンときてしまったのだ。

「虎杖悠仁は僕が殺します」と上層部に言い切った時、虎杖をいったん殺すという策は頭の中に出来上がっていたんだろうが、これって自分が負ける可能性を全く考えていないよね。戦闘中も「走り出しで潰すつもりだった」「五条先生の教え子だもん 一筋縄じゃいかないか」と来る。余裕だね。アナタハカミデスカ?と言いたくもなるよ。

この感情、前にも感じたことがあると思ったら、五条悟だ。稽古を頼んだ伏黒に言った「それじゃ僕どころか七海にもなれないよ」にカチンときた覚えがある。ななみんを見下しすぎだと腹が立ったが、五条が見かけどおりの傲慢で自分勝手な男でないことを私は知っている。物語の始まりから獄門疆に閉じ込められるまでの期間、ずっと彼を見てきたから。単行本にして10冊ちょっとの重みとでも言おうか。一方で、私の知る乙骨は0の中の彼だけだ。しかも戻ってきたらまるで別人。過ごした時間があまりにも短いうえ、どこか機械的なものさえ感じてしまう乙骨は、私にとって不穏な、感情移入不能なキャラクターなのだ。

好きになれない理由はもうひとつ。こっちの方が重大。それは里香ちゃんを再び引きずり出したことだ。「はあ?!」「何で?!」「ウソやろ?!!!」32回は声に出して叫んだわ。いやいやいや、あり得へんやろ。どんな神経しとるんや。可愛らしい元の姿に戻って、ようやく天へと旅立つことができたんだぞ。何でまた怪物姿で引き戻すかな。

“外付け” とか説明されてもよくわからん。旧里香ちゃんも、乙骨の怨念があのような形で彼女の魂を引き留めたもので、生まれ持つ能力の高さと桁外れの呪力量の結果だ、ぐらいの認識だった。里香ちゃんがいなくなっても外付けとかできるんだったら、全く別物でもいいんじゃないのかい。百万歩譲ってあの形態しかなかったとしても、名前ぐらいは変えようよ。乙骨はあの姿の里香でも愛せるらしいし、当の本人も気にしてないとは言っていたが、女の子ってやっぱり可愛くいたいものよ。「もういい加減やめて」って言ってるよ、上にいる里香ちゃんは。たぶん。知らんけど。

私だったら “わたるくん” って呼ぶな。あ、無関係な人名とか今時コンプラ的にヤバいか。だったら大魔神とか玉梓とか鉄人2号とか、この際何でもいいや、里香以外なら。※
外付けの件については、おそらく私がわかっていないだけなんだろう。根っからの文系頭にもわかるような説明を誰かしてくれないかな。多分納得はしないだろうけど。

「乙骨が嫌いなヤツなんて見たことも聞いたこともねぇわ」って言われたことがある。

ごめん。若干1名ここにいます。

※脚注
わたるくん:私のような年代の者にとって、リカちゃんと言えばリカちゃん人形のこと。リカちゃんのボーイフレンドがわたるくんでした。その後リカちゃんは彼氏を取っ替えていたらしく、わたるくんを含めて歴代6人のボーイフレンドがいるのだそう。やるな、リカちゃん。
玉梓(たまずさ):その昔、NHKで放送されていた人形劇『新八犬伝』のキャラクター。怨霊。登場するときのフレーズ「我こそは玉梓がおぉんりょ~う」は今も忘れられない。
鉄人28号:ご存じ(?)横山光輝のマンガに登場するロボット。私が見ていたのはアニメ版。操縦用のリモコンをブロックで作っていた記憶があります。懐かしいです。
以上、昔話シリーズからお届けしました。

好きと言える幸せ

頭痛持ちだ。
学生時代は勉強のしすぎだとか(ない)目が悪くなったからだとか姿勢が悪いからだとかいろいろ言われたけど、最終的には頭痛薬に頼るしかなかった。

低気圧が頭痛の原因の一つだとされるようになったのは、ここ数年のことだろうか。言われてみれば思い当たる節がいっぱいある。頭が痛くなるのは雨が降る前日が多い。かと言ってすべての雨に当てはまるわけでもないが、雨好きの私としては認めたくはないところではある。

最近は夜中に何度も目が覚める。年のせいだと言ってしまえばそれまでだが、1時間ごととなるとさすがに病的なものじゃないかと疑う。翌日は極度の寝不足で、当然頭痛薬のお世話になる。

一昨日もそうだった。最近薬を飲む頻度が増しており、できるだけ我慢するようにしていても、昨日はとても無理だった。薬を握りしめて水を飲みに行く。
「頭痛くて我慢できへん」
そう愚痴ると、頷く仲間の多いこと。
「やっぱりね」
「私もさっき薬飲んだ」
「頭痛すぎて手がしびれてきたわ」

そうか。夜中に異常なくらい目が覚めるのは、いわゆる”気象病”のせいなのかもしれない。原因と思われるものがわかって嬉しいやら悲しいやら。でも、実は仕事場で頭痛薬を飲む時に、思わず頬がゆるんでしまう密かな楽しみがあるのだ。それは薬を持ち歩いている缶にある。私の呪術廻戦好きを知った仕事仲間がくれたもので、一瞬「これ悟か?」と思ったのだが、今では頭痛薬を飲む時の癒しにもなっている。

呪術廻戦にハマってから約2年という短期間に、自分でも驚くほどの関連グッズを集めた。基本的に原画を使っていることにこだわっている。アニメやそれ以外の物もあるにはあるが、私なりの美的基準みたいものがあり、それに従って集めてきた。

だけどね、私の呪術好きが広まるに連れ、いろんな人がいろんなものを持ってきてくれるようになったの。出かけるたびにガチャ回して、見たこともないようなグッズをくれる人もいる。私のななみんファイルを見て「私も好き!」から会話が弾み、これまたいろんな呪術グッズを手渡してくれた人もいた。他にもいろんな人からたくさんの物を頂いた。その多くは私の美的基準からは外れたもの、中には「マジどちら様ですか?」ってのもあるんだけど、うれしいの。好きだってこと知っただけで、あまり話したことない人まで、わざわざ持ってきてくれるなんてことあるんだって。世の中まだ捨てたもんじゃないって思えた。

マンガ好きとかアニメ好きとか大っぴらに言えない時があった。今は「呪術廻戦が好きなのよ」って大きな声で言える。そうして集まった物に囲まれ、小さな幸せを噛みしめながら毎日を生きている。

呪術廻戦の主人公

はじめに…
今、2025年10月25日です。
昨日久しぶりに音楽でも聴こうと思ってYouTubeを開き、思いっきり後悔しました。呪術と私の心が日に日に乖離していく感覚はもはや止められませんが、投稿は続けます。それではいつものようにここから。


呪術廻戦の主人公は虎杖悠仁です。

そのはずなんだけど、ずっとモヤモヤしてるんだ。

何の知識もなくアニメに途中参戦した当初から、何て華のない主人公なんだろうって思ってた。そもそも全然タイプじゃない。髪はピンクで赤いフードの制服。何じゃこりゃ?
私自身が根暗で考え込みやすい性格なので、根明で思ったことを素直に言える悠仁みたいなタイプは敬遠してきた。でもそれは羨ましさの裏返しでもあったんだよね。

個人的な好き嫌いは置いといて、人間離れした身体能力(かなり離れすぎだけど)を持っている以外、虎杖悠仁はごくごく平凡な高校生だった。勉強ができるわけでもなく恵まれた環境で育ったわけでもない。こういう場合、物語が進むにつれ主人公が成長し強くなっていくもんだと勝手に決め込んでいた。

ところがどうだ。いくら待っても彼はさほど強くもならず、まわりはそれぞれの術式を駆使、領域展開までする者もいる中、ほぼ拳一つで戦っている。地獄への入り口渋谷事変に至っては、地べたを這いずり、すべては自分のせいだと自らを責めるばかり。ちょっと待て。あんたが一体どんな悪さをしたっていうのさ。私のDNAに組み込まれた判官びいきが一気に炸裂した。この時からさ、私が悠仁のオカンになったのは。

放り出しそうになりながらも執念でストーリーにしがみつく。そこに突如降臨したのが乙骨憂太だ。

彼のことはもちろん知っていた。コミックス0も読んだし、映画もリアルタイムでこそ間に合わなかったものの、配信で後追いした。現在の0が別名で先に世に出ていたことも知っている。だけどさ、本誌での連載が決まった時、最終的に虎杖悠仁を主人公として選んだわけでしょ。なのに何故ここにきて急に二人を並べ立て始めたのか。「虎杖&乙骨の新旧主人公シール!」ってのを本誌で見かけた時には愕然としたわ。呪術廻戦の主人公はいつの間に二人になったんだ?

そうだよね。実際、渋谷事変以降は乙骨が主人公と言っても過言じゃない。新旧で言うならむしろ虎杖がで乙骨がかつメインだ。0からいきなり復活し、鮮やかに、見事なまでにすべてをかっさらって行った。その一方、悠仁の影の薄いこと。最終的には宿儺を倒したってことにはなるんだろうが、あれって悠仁一人の力でもないし、正直なところ何がどうなったんだかよくわかんないんだよね。

結局悠仁は何をしたんだ?
強くはなったのか?
それとも彼はただの狂言回しだったってことなの?

いや。そんなことあってたまるか。
最強になろうなんて高望みはしない。華なんてなくてもいい。泥臭くてもいい。どんな形であれ呪術廻戦をここまで引っ張ってきたのは虎杖悠仁なんだもの。ちっぽけな歯車の一つに過ぎなかったかも知れないけど、人を救うため、仲間のため、真っ正直にただひたすらに戦う。そんな主人公がいてもいいいよね。

五条悟の跡なんて引き継ぐ必要もない。そもそもそんな柄じゃない。虎杖悠仁はきっとあの後も、一介の呪術師として、地に足つけて体張ってがんばったんだと思うよ。案外呪術高専の先生とかも合ってたかもね。どんな生き方をしたにせよ、最後はたくさんの仲間に囲まれて、悟やななみんやジイちゃんたちのところへ笑って旅だったんだと信じてる。そしてオカンはそんなあなたを誇りに思います。だから最後にもう一回だけ言わせて。

呪術廻戦の主人公は虎杖悠仁です。

あー、オカンちょっとだけスッキリしたわ。ありがとね、悠仁。

Satoru is everything



五条悟が誕生した時点で呪術廻戦の勝ちは決まっていた

なんてね。まあ要するに、五条悟というキャラクターが生み出された時点で、呪術廻戦の成功は決まったと思うんだ。もう何年もマンガやアニメを見てないから単純に比較はできないんだけど、今まで目にしてきた中で彼ほど特異で魅力的なキャラクターはいない。何と言っても、とにかくかっこいい。

五条悟なんて聞いたこともなかったのに、USJで見かけた5000円近くする彼のポップコーンケースを思わず買っちゃいそうになるほどかっこいい。包帯で素顔も見えないのに、恐るべきオーラだ。

だけどその魅力は外見だけじゃない。
性格悪いとか軽薄だとか言われてるけど、ホントにそうなのか。むしろ人として一番まともなキャラだったんじゃないかって私は思ってる。

生まれた時から別格だったわけだし、そりゃ多少はおかしくもなるわな。けど懐玉・玉折で描かれた学生時代は、呪術師であること以外私らと何ら変わりない。時に悪ふざけもする、ごく普通の眩しい青春だ。あのルックスだからモテはしただろうけど、遊んでいるようにも見えない。本気で女性と向き合ったことなんてないんじゃないかな。男女を問わず本音をさらけ出せた可能性のある相手は、結局夏油だけだったんだろう。

ちゃらんぽらんはあくまで表面上のこと。すべてを見据えて行動する賢さが見え隠れする。恵の能力を見極めたうえで、喜久福買ってドンピシャなタイミングで助けに現れる。外見上のかっこよさとちゃらんぽらんさ、内面の優しさと淋しさ、賢さと危うさ、それらが絶妙に入り混じってできた五条悟は、やはり唯一無二の史上最高のキャラクターだ。

Satoru is everything.
呪術廻戦は五条悟がすべて
(英語の使い方合ってる?)
彼の代わりは他の誰にも務まらない。

五条の死にざまは記憶がぶっ飛ぶほど衝撃的だった。悲惨すぎて涙も出やしない。あそこまでやられると、もはや清々しいぐらいだ。😭←泣いてるやん
ストーリーの先読みはことごとく外していたが、悟はロクな終わり方をしないという予想だけは当たったことになる。考えていたのとは全く違った形だったけどね。彼が復活することを最後まで期待してたけど、そうはならなかった。

いいよ。あそこまでやられたら諦めもつくってもんだ。いなくなっても残されたみんなを、呪術廻戦を導いてくれてありがとう。本当にありがとう。

だけどさ、今更だけどさ、みんな最後にもう少し彼のことを思い出してくれても良かったんじゃない?

マンガかアニメか

アニメという言葉を一つのジャンルとして意識しはじめたのは『機動戦士ガンダム』(もちろん初代)が放映されていた頃。映画化もされ、ニュース番組などにも取り上げられるくらいちょっとしたブームになっていた。マンガに関しては『小学1年生』にはじまり『なかよし』『リボン』『少女フレンド』などなどを友達同士で回し読みするごく普通の少女時代を過ごしてきたが、中学後半になるとマンガをほとんど読まなくなっていた。テレビで見るのは歌番組かドラマ。『ドラえもん』や『サザエさん』にアニメという特別な認識はなく、家族で見るテレビ番組もしくは子供向けの娯楽番組としか思っていなかった。

そこに現れたのがガンダムである。私は一気に虜になった。自分のオタク気質を自覚したのもこの時で、突如スポットが当たりはじめた声優という職業に憧れを抱いたものだ。腐女子なんて言葉が出現したのも多分この頃。自分自身についてほぼ自虐的に使いつつも、ほんの少しだけ嬉しい気持ちもあった。当時は「アニメが好き」「マンガが好き」と大っぴらには言えない雰囲気があった。

時は流れ、今やマンガやアニメは日本の代名詞とも言うべきコンテンツ文化となった。好きを公言しても、かつてほど引かれることもなくなった。押し活の対象はアイドルや俳優のみならずマンガやアニメのキャラクターにまで及んでいる。私はその波に一切のまれることなく過ごしてきた。世界がコロナ禍に見舞われる2020年はじめ頃までは。

コロナ禍が世界を襲う少し前、「鬼滅の刃の伝道師」を自称する若い同僚が職場にコミックスを持ち込み、その回し読みルートの中に私もすっぽり収まった。世間では鬼滅の刃大フィーバーが起きており、老いも若きも鬼滅、鬼滅。炭治郎の羽織柄マスクをした子供たちがそこら中を徘徊しているのを見れば、否が応でも興味が湧く。老眼という難敵と闘いながら何十年ぶりかで読むマンガ。決して面白くなかったわけではない。けれど世間がここまで騒ぐほどの魅力を感じることはできなかった。配信でアニメ版を見た同僚が「マンガよりわかりやすいし面白い」と勧めてくれた時も一向に食指が動かなかった。私の中のアニメは何十年か前で止まったままだった。今思えば、それが私の現在地を決めるきっかけとなったのかもしれない。

深夜に放映していた呪術廻戦を見かけた時、かつてのアニメとは全く違うことに驚いた。画質の粗さや絵の乱れ、同じシーンの使いまわしといった印象しかなかった認識が見事に覆された。配信されていたアニメ版を一気見し、続けざまにコミックスを読破して更に驚いたのは、マンガの内容がそのままアニメになっていることだった。セリフまで変えられることなく使われている! マンガをアニメ化する場合、ストーリー自体が改変されるのはおろか、キャラが追加されたりデフォルメされたりするのが当たり前だと思っていた私には衝撃だった。とはいえ、どう近づけてもマンガとアニメは違う。マンガを読む時、私は小説を読むのと同様に登場人物の声を頭の中で作り上げ、描かれていない部分を想像力で補っている。自分で作り上げたイメージが壊れることが嫌で、アニメ化や実写化には反対の立場だった。だが呪術廻戦との出会いが、この考えを根底から覆した。マンガを読む私の頭の中では、声優中村悠一のイケボイスで話す超がつくほどカッコいい五条が勝手に動き回っていた。もし先に出会っていたのがマンガの呪術廻戦であったら、こんな風にブログを書いている私は存在しただろうか。正直なところ「もちろん!」と答える自信はない。

どんな形で作品に出合うか、小説なのかマンガなのかアニメなのか、はたまた実写化されたドラマでなのかで印象はがらりと変わる。それぞれを比較しながら楽しむ人もいれば、マンガ派アニメ派と呼ばれるように一つのメディアだけに絞る人もいる。同じメディアではあっても描かれ方一つで好きから嫌いになったりもする。そんな微妙なバランスの中で私たちは生きている。

時は2025年10月。映画版第二弾の鬼滅が世界を席巻している今、呪術廻戦も大きく動こうとしている。目や耳をふさいでいても情報が飛び込んでくるこの時代に、アニメ派の呪術ファンたちが今後の展開を全く知らないなんてことがあるのかどうかは知らないが、アニメ『死滅回遊編』を見て彼らは何を思い、どう行動するのだろう。