呪術廻戦≡(モジュロ)について

衝撃だった。

芥見下々原作で作画が別人の呪術廻戦新作がジャンプで新連載?

この驚くべき知らせはブログを始めようと決意した矢先「アニメ死滅回遊編が2026年1月より放映決定」に始まる一連のニュースがなだれ込んでいた頃にもたらされ、私を天国から地獄へと一気に突き落とした。

放映中のアニメを偶然見かけて興味を持ち、コミックスを借りて読みはしたが、このまま呪術を追いかけていいのか?と自問した時期があった。決め手になったのは作者自身が「最終回や要所要所の結末は決まっている」と答えていること、その後ジャンプの連載終了予定が発表されたことだった。

漫画に限らずアニメでも小説でもテレビドラマでも映画でも、基本的には作り手の思いやメッセージがあり、メディアはそれを伝えるための手段だと思っていた。だから一つの物語はその終わりに向かって走り、最後に到達した時点でキチンと幕を下ろして欲しいのだ。エンドを決めずに走り出し、そのまま行けるところまで行くタイプのものもあれば、最初からサーガ的なものを目指すのも、それはそれとして良しだと思う。けれどそうではない場合、派生的な話を加えたり、続編を作ったり、ドラマで言えば当初の予定以上にシーズンを続けたりして、最後はグダグダになって終わっていったものを何度も見てきた。それは最初の作品を貶めることにつながりはしないか?

私は呪術廻戦が好きだ。

この世界に引き込んでくれた芥見下々という漫画家には敬意と感謝しかない。だから彼or彼女自身が原作を担当しているモジュロについて、とやかく言う筋合いでも権利もないことはわかっている。わかってはいるが、あふれる想いは止められない。
呪術廻戦のその後をあのまま読者に委ねられなかったのか?
続けるとして、体力と気力が戻った数年か数十年後にご自身の手で描くという選択肢はなかったのか?
マンガが小説と決定的に違うのは、文字より絵がメインであることだろう。もし呪術廻戦を芥見下々以外の漫画家が描いていたら、おそらく私は今この場にいなかった。マンガにおける描き手はそれだけ重大な要素なのだ。

とはいえモジュロはすでにスタートしてしまった。昨今のネット社会とは恐ろしいもので、検索画面を開いてもYouTubeを開いても、頼んでもいないのにモジュロ情報が目に飛び込んでくる。見ちゃったらついつい覗いてみたくなるのが人の性。こうして私はモジュロが諸手を挙げて迎え入れられている様や、ストーリーが如何に本編とつながっているかまで知ることとなり、それが呪術に対する幻滅感へとつながっていった。呪術廻戦の世界観はどこへ行ってしまったのか。あの形で連載を始めるのなら、呪力・呪術という概念だけを使い、本編に頼らない全く新しい別次元のストーリーにするべきではなかったのか。約6年半にわたる連載の歳月は一体何だったのだろう。

私の疎外感は日に日に強まっている。こんなことを考えているのは私だけかも知れない。このタイミングで呪術愛を語るサイトを開いてしまった不運を呪うしかないが、今更どうしようもない。サーバーとの契約はとりあえず1年。この1年を当初の予定どおり呪術廻戦本編について考えていこう。本編で解明されなかったことや個人的な疑問や思いを綴っていきたい。悠仁たちはあの後どんな風に生きたのか、呪術高専や日本はどうなったのか。読者が自身の想像の翼を広げ呪術を味わうのも一つの楽しみ方だと信じる私は、あわよくば共に語れる仲間を見つけられることを夢見ている。

モジュロで語られる真実?は当面の間なかったことにする。今のところ雑誌の連載を読む気はないし、3冊ほどになるというコミックスも目を通すか否かは自分でもわからない。ひょっとすると1年後モジュロフリークになっている可能性すら否定できない。ただ、私はジイさんになった悠仁や恵の姿は見たくないし、その背後の奇想天外な話も聞きたくない。呪術のキャラクター達にはずっとあのままの姿でいて欲しいという想いは変わることがないだろう。

人間年を取れば丸くもなるし聡くもなると思っていたが、私の了見の狭さや偏屈さ加減は弱まることがないらしい。モジュロが不人気で連載打ち切りになることを密かに願っている自分が情けない。いっそのこと悠仁にぶん殴ってもらい悟やななみんのところへ行ってしまいたい。今はそんな気分だ。