雪ん子先生

小学生の頃、始業前と後の短い時間帯に本を読んでくれた先生がいた。確か下の名前は “ゆきこ” だったが、色白でおさげ髪、まるで学生のような若い彼女のことを私たちは “雪ん子先生” と呼んでいた。

4、5年あたりの担任だったと思う。図書室の本を読み漁っていた私だが、幸いなことに彼女が選んだ本は私が読んだことがないものばかりだった。今思えば、それらは私が絶対に借りないだろう本だったから。

彼女が何冊の本を読んだのかは覚えていない。記憶に残っているのは『リスキーとドブネ』と『千本松原』というタイトルの2冊だけだ。本の内容はほとんど欠落しているのに、ものすごく感動したことと、彼女の手にあった本の分厚さや装丁ははっきりと覚えている。

大人になって、公立図書館の検索システムで『リスキーとドブネ』が絶版になっていることまでは突き止めていた。今あらためてタイトルでネット検索すると「見当たらない」との答え。最近はこんな事態にも慣れっこだ。児童文学であること、表紙の色やデザインなど覚えている限りの補足情報を加え何度か検索を重ねた結果、今井誉次郎という名前に行き当たった。

物語が書かれたのは戦後の混乱期あたりだとするAIの回答に一瞬たじろいだが、育った環境の違う2人の少年の交流を軸に、未来への不安と希望を織り交ぜたとする内容から多分これに間違いない。私の記憶が正しければの話だが、周りの物を指さし「生きている」「死んでいる」と言い合いながら幕を閉じるという、ありきたりなハッピーエンドにはない衝撃的でほろ苦い印象が胸の奥に突き刺さっている。

一方『千本松原』の方はもっとはっきりしている。作者は岸 武雄。今から50年以上前に刊行された児童文学だ。
正直に言えば、先生がこの本を手にして現れた時はガッカリだった。まず表紙の絵が私の好むマンガタッチの線画とはまったく違う。しかもタイトルはどう考えても重く現実的な話を連想させた。本の世界に現実逃避を求めていた私は、伝記や実話的な話が嫌いだった。ところが先生が読み始めるや否や、私を含めクラスの皆がこの話の虜になった。

私たちの住んでいた地域は数本の川に囲まれる輪中地帯として知られており、この物語は水害対策のために松を植えた人たちの苦難を描いた実話に基づく物語とされる。言われてみれば確かにそんな話だったような気はするが、私はむしろ裕福だった自分の家が没落していく様を、主人公である少年の目を通して描いた場面が何より強く心に残っている。

分厚い本だったから、最後まで読むには数か月かかっていたはずだ。当初の印象通り辛く重い描写の連続だった。涙を流して聞く子もいれば、強がっておちゃらけてみせる男の子たちもいた。泣くとこなんて絶対見せたくない可愛げのない女の子だった私は、必死で涙をこらえていた。

今でも時々雪ん子先生のことを思い出す。その度に心に浮かんでくるのは、教室に置かれた石油ストーブ、湯気の立つヤカン、濡れた手袋、教壇前の椅子に腰かけて本を読むおさげ髪の先生、出稼ぎ先の重労働で視力を失った父親が、ボロボロの紙袋からお土産のアメ玉を手探りで渡す姿、その場面を泣きながら読む先生の声を聞きポロポロ涙をこぼす自分の姿だ。学校で泣いたのは、後にも先にもこの時だけだったと思う。

先生、お元気ですか。
あれからずっと先生を続けられたのでしょうか。私は先生みたいになりたくて、いっぱい本を読み、好きな本を音読する練習もしました。だけど人前に出ると異常なくらいに緊張して、話を続けることができなくなるのです。せめて我が子にだけはと思ったのですが、先生みたいにはできませんでした。本を読むこともしなくなり、結局何者にもなれないまま、今こんなところにいます。
けれど、先生の読む物語に目を輝かせながら、時に涙を流しながら聞いていた私のような誰かが、どこかで先生みたいに読み聞かせをしているに違いないと思うと、少し救われたような気持になるのです。

先生、読み聞かせをしてくれてありがとう。

めぐる

「思い出が走馬灯のように蘇る」は、過去の記憶を思い起こす感じが伝わる上手い表現だなと思っていた。実際 “走馬灯” がどんなものかはよくわからないが、お盆の時に飾る回り灯籠みたいなものを想像している。

ブログを始めてから過去を振り返ることが増えた。特に昔読んだ本やマンガ、テレビや映画などの映像作品。それらを思い出すときに「走馬灯のように」と言いかけて、何かちょっと違うなと感じる。

本についていえば、最も多読だった小学生時代から、読む量はどんどん減っているが、人に薦めたくなるほど強い感銘を受けた作品にたくさん出会えた。なのにそれらのタイトルや装丁、挿絵などは覚えている一方、肝心の内容が飛んでしまっているのだ。1日1冊ペースで流し読み状態だったせいなのだろうか。
他の媒体についても同じようなもので、あんなに好きだったはずの宝物たちが、断片的な記憶としてしか残っていなかったりする。

何かの拍子にこれらのことを思い出すと、表紙と挿絵、映像のワンシーンや一節、更には当時の身の回りの風景、音、匂い、出来事が次々と頭の中に浮かんでくる。それは走馬灯というよりむしろ “芋づる式” に近い気がするが、この表現はさすがに違うよね。そうだな…飛び出た糸の先を引っ張ると、それに巻き込まれた小さな記憶の断片が次々と弾け出す感じ。

カラカラカラ
歯車みたいなのに巻き付けられた糸が解けてゆく。これってなんて言うんだっけ。そう、糸車だ。『眠れる森の美女』とかで見るようなやつ。
糸車糸車…待てよ、糸車と言ったら…

♪ “めぐるめぐる めぐる因果は糸車”

その昔、NHKで放送していた人形劇『新八犬伝』のオープニング曲だ。フルフレーズ、スラスラと口をついて出てくる。
“めぐる” は呪術廻戦ともダブり、私には何とも因縁めいて聞こえるが、ん? ここでめぐっているのは記憶じゃなくて因果だぞ。

ポップアップ!
もひとつ出て来た。

♪ “思い出の糸車 からからから空回り”

藤田まこと演じる中村主水を主人公とした『必殺仕事人』で、あるシーズンのエンディングに流れていた曲だ。
れ? 空回り?
糸あらへんやん。

♪ “思い出の糸たぐる からんでもつれた絹を”

あったあった。しかも絹糸だよ。
この曲、” 飾り職の秀” を演じていた三田村邦彦の歌唱バージョンもあったんだよな。好きだったなぁ、ヒデさん。かっちょよくてさ。三田村さん、最近見かけないなと思ってたけど、何か旅番組に出とったなぁ……

もはや糸車でもなく「連想ゲーム」か「飛び火」だよ。私の思考はいつもこんなふうに次から次へと飛びまくり、糸の先端に何があったのかもわからなくなってしまう。だけど確かなことは、思い出が糸車のようだと感じる人が他にもいるってことだ。他人の頭の中を覗くことはできないが、案外みんな同じような経験をしているのかもしれない。

このサイトを開くキッカケはもちろん『呪術廻戦』だったのだが、開く直前私の想いは見事に砕け散り、行く先を見失ってしまった。もう少し若ければ、新たなる出会いを求めて進むこともできただろうが、多分私に “次” はない。だけど誰かに話したかった糸の先っちょが他にも幾つかあるではないか。相当古くて途中で切れちゃったり絡まったりしているけど、紡いだ糸をたぐって何かを作り出すのは今なんじゃないのか。

人生100年時代とも言われる。
私にだってまだ未来はあると思いつつ、自らを老人やら年寄と呼び、ついつい後ろ向きになってしまう。自分史を遺したいと思う人たちの気持ちがわかる年頃になって、何をしたわけでもないちっぽけな存在だけど、ちゃんと真面目に生きてきた自分を褒めはできないまでも肯定してやりたいと思う。

そうして “オトナ” は過去を向くのさ。
ここから先は、私の思い出の糸をたぐりよせてみようと思う。

ブログの終焉

半年近く前、購読している新聞に『消えゆくブログサイト』という見出しの記事が載った。人生で2度目のサイトを開いたばかりの私には、まさに天啓のような見出しだった。

ある日突然友人が “ホームページビルダー” なるものをくれたのは今から二十数年前のこと。それを使って作ったのが私の最初のサイトだ。
どうにかこうにか日々の生活や写真を綴れるようになりサイト作りが楽しくなる一方で、プライベートなことを公開するのはとても危険なことだと気づいた。それでも、作った物や自分の考えを世界中の人に知ってもらえる可能性に心がときめいた。

そこで私は当時ハマりまくっていたゲーム『バイオハザード』にテーマを変更し、自分のへなちょこぶりをレポートしたり、自作のマップやタイムラインを公開したりした。無料レンタルの掲示板で来訪者とやり取りするようにもなった。InstagramやXなんてものは影も形もなかった時代のお話だ。

そんな時に現れたのがブログだ。特別な知識がなくても、簡単な登録だけで誰もが自分のホームページを持ち、来訪者との交流もはかれる。次々と新しいブログサイトが現れ脚光を浴びてゆく中、長い時間をかけ見栄えもしないページを作るのがバカバカしくなった。操作法の変更などで、バイオハザードへの熱も冷めつつあった。掲示板では “荒らし” の書き込みに対処したり、ネット上で知り合った人たちとの関係の難しさにも疲弊する日々。私はサイトを閉じ、この世界との縁を切った。

転機は突然虜になった『呪術廻戦』だった。誰かとこの気持ちを共有したい。話したいことが山ほどあるのに行き場が見つからない。
つぶやけばいいのか?
「いいね!」すればいいのか?
「呪術にハマったアラ還女でーす!」ってコメントすればいいのか?
書いてるだけでゾッとするわ。
結局、当初は避けていたブログメインのサイトを開こうと決意した。新聞記事を見たのはちょうどその頃だ。

記事によれば、ブログへのアクセス数はピーク時の3分の1ほどになり、閉鎖されるブログサイトも少なくないらしい。書き連ねた文字の代わりに、より気軽に短い文章や画像を投稿できるXや、目や耳に直接訴えかけるYouTubeやInstagramなどが世間を席巻している現状を考えれば、それも仕方ないことなのかも知れない。今やブログは商品のお勧めをして収入を得る手段という印象すらあるが、もとは日記のような私的な記録に端を発していたはず。新聞記事の主眼は、そこに記された闘病記や被災体験などの貴重な記録が、ブログサイトの閉鎖とともに消えてしまうことへの危惧だった。同じような事情や悩みを抱える人にとって、ブログは救いや希望を得る場所でもあったのだ。

自分のサイトがそんな価値のあるものだとは思ってもいなし、そんな望みもない。心にたまったものを吐き出したいなら日記帳なり何なりに書き殴ればいいと言われても、そこには穴に向かって「王様の耳はロバの耳!」と叫んでいるような虚しさがある。ブログなら、どこかで誰かが「そうだよね」って思ってくれるかも知れない。書く方も読む方も、ブログに一縷の希望を託している。

ITの進歩は凄まじい。SNSの世界も数年後はどうなっているかもわからない。
けれど見せるべきものもなく、話したり踊ったり歌ったりすることに長けてもいない、もちろん作家でも著名人でもない一市民が、書くことで世界とつながれる手段が、どのような形であれ残っていることを願う。