「思い出が走馬灯のように蘇る」は、過去の記憶を思い起こす感じが伝わる上手い表現だなと思っていた。実際 “走馬灯” がどんなものかはよくわからないが、お盆の時に飾る回り灯籠みたいなものを想像している。
ブログを始めてから過去を振り返ることが増えた。特に昔読んだ本やマンガ、テレビや映画などの映像作品。それらを思い出すときに「走馬灯のように」と言いかけて、何かちょっと違うなと感じる。
本についていえば、最も多読だった小学生時代から、読む量はどんどん減っているが、人に薦めたくなるほど強い感銘を受けた作品にたくさん出会えた。なのにそれらのタイトルや装丁、挿絵などは覚えている一方、肝心の内容が飛んでしまっているのだ。1日1冊ペースで流し読み状態だったせいなのだろうか。
他の媒体についても同じようなもので、あんなに好きだったはずの宝物たちが、断片的な記憶としてしか残っていなかったりする。
何かの拍子にこれらのことを思い出すと、表紙と挿絵、映像のワンシーンや一節、更には当時の身の回りの風景、音、匂い、出来事が次々と頭の中に浮かんでくる。それは走馬灯というよりむしろ “芋づる式” に近い気がするが、この表現はさすがに違うよね。そうだな…飛び出た糸の先を引っ張ると、それに巻き込まれた小さな記憶の断片が次々と弾け出す感じ。
カラカラカラ
歯車みたいなのに巻き付けられた糸が解けてゆく。これってなんて言うんだっけ。そう、糸車だ。『眠れる森の美女』とかで見るようなやつ。
糸車糸車…待てよ、糸車と言ったら…
♪ “めぐるめぐる めぐる因果は糸車”
その昔、NHKで放送していた人形劇『新八犬伝』のオープニング曲だ。フルフレーズ、スラスラと口をついて出てくる。
“めぐる” は呪術廻戦ともダブり、私には何とも因縁めいて聞こえるが、ん? ここでめぐっているのは記憶じゃなくて因果だぞ。
ポップアップ!
もひとつ出て来た。
♪ “思い出の糸車 からからから空回り”
藤田まこと演じる中村主水を主人公とした『必殺仕事人』で、あるシーズンのエンディングに流れていた曲だ。
れ? 空回り?
糸あらへんやん。
♪ “思い出の糸たぐる からんでもつれた絹を”
あったあった。しかも絹糸だよ。
この曲、” 飾り職の秀” を演じていた三田村邦彦の歌唱バージョンもあったんだよな。好きだったなぁ、ヒデさん。かっちょよくてさ。三田村さん、最近見かけないなと思ってたけど、何か旅番組に出とったなぁ……
もはや糸車でもなく「連想ゲーム」か「飛び火」だよ。私の思考はいつもこんなふうに次から次へと飛びまくり、糸の先端に何があったのかもわからなくなってしまう。だけど確かなことは、思い出が糸車のようだと感じる人が他にもいるってことだ。他人の頭の中を覗くことはできないが、案外みんな同じような経験をしているのかもしれない。
このサイトを開くキッカケはもちろん『呪術廻戦』だったのだが、開く直前私の想いは見事に砕け散り、行く先を見失ってしまった。もう少し若ければ、新たなる出会いを求めて進むこともできただろうが、多分私に “次” はない。だけど誰かに話したかった糸の先っちょが他にも幾つかあるではないか。相当古くて途中で切れちゃったり絡まったりしているけど、紡いだ糸をたぐって何かを作り出すのは今なんじゃないのか。
人生100年時代とも言われる。
私にだってまだ未来はあると思いつつ、自らを老人やら年寄と呼び、ついつい後ろ向きになってしまう。自分史を遺したいと思う人たちの気持ちがわかる年頃になって、何をしたわけでもないちっぽけな存在だけど、ちゃんと真面目に生きてきた自分を褒めはできないまでも肯定してやりたいと思う。
そうして “オトナ” は過去を向くのさ。
ここから先は、私の思い出の糸をたぐりよせてみようと思う。
