ブログの終焉

半年近く前、購読している新聞に『消えゆくブログサイト』という見出しの記事が載った。人生で2度目のサイトを開いたばかりの私には、まさに天啓のような見出しだった。

ある日突然友人が “ホームページビルダー” なるものをくれたのは今から二十数年前のこと。それを使って作ったのが私の最初のサイトだ。
どうにかこうにか日々の生活や写真を綴れるようになりサイト作りが楽しくなる一方で、プライベートなことを公開するのはとても危険なことだと気づいた。それでも、作った物や自分の考えを世界中の人に知ってもらえる可能性に心がときめいた。

そこで私は当時ハマりまくっていたゲーム『バイオハザード』にテーマを変更し、自分のへなちょこぶりをレポートしたり、自作のマップやタイムラインを公開したりした。無料レンタルの掲示板で来訪者とやり取りするようにもなった。InstagramやXなんてものは影も形もなかった時代のお話だ。

そんな時に現れたのがブログだ。特別な知識がなくても、簡単な登録だけで誰もが自分のホームページを持ち、来訪者との交流もはかれる。次々と新しいブログサイトが現れ脚光を浴びてゆく中、長い時間をかけ見栄えもしないページを作るのがバカバカしくなった。操作法の変更などで、バイオハザードへの熱も冷めつつあった。掲示板では “荒らし” の書き込みに対処したり、ネット上で知り合った人たちとの関係の難しさにも疲弊する日々。私はサイトを閉じ、この世界との縁を切った。

転機は突然虜になった『呪術廻戦』だった。誰かとこの気持ちを共有したい。話したいことが山ほどあるのに行き場が見つからない。
つぶやけばいいのか?
「いいね!」すればいいのか?
「呪術にハマったアラ還女でーす!」ってコメントすればいいのか?
書いてるだけでゾッとするわ。
結局、当初は避けていたブログメインのサイトを開こうと決意した。新聞記事を見たのはちょうどその頃だ。

記事によれば、ブログへのアクセス数はピーク時の3分の1ほどになり、閉鎖されるブログサイトも少なくないらしい。書き連ねた文字の代わりに、より気軽に短い文章や画像を投稿できるXや、目や耳に直接訴えかけるYouTubeやInstagramなどが世間を席巻している現状を考えれば、それも仕方ないことなのかも知れない。今やブログは商品のお勧めをして収入を得る手段という印象すらあるが、もとは日記のような私的な記録に端を発していたはず。新聞記事の主眼は、そこに記された闘病記や被災体験などの貴重な記録が、ブログサイトの閉鎖とともに消えてしまうことへの危惧だった。同じような事情や悩みを抱える人にとって、ブログは救いや希望を得る場所でもあったのだ。

自分のサイトがそんな価値のあるものだとは思ってもいなし、そんな望みもない。心にたまったものを吐き出したいなら日記帳なり何なりに書き殴ればいいと言われても、そこには穴に向かって「王様の耳はロバの耳!」と叫んでいるような虚しさがある。ブログなら、どこかで誰かが「そうだよね」って思ってくれるかも知れない。書く方も読む方も、ブログに一縷の希望を託している。

ITの進歩は凄まじい。SNSの世界も数年後はどうなっているかもわからない。
けれど見せるべきものもなく、話したり踊ったり歌ったりすることに長けてもいない、もちろん作家でも著名人でもない一市民が、書くことで世界とつながれる手段が、どのような形であれ残っていることを願う。

榊マリコにもわかるまい

文章を書くのは本当に難しい。
頭に浮かんだことを書こうとしても、まず指がついてこない。紙に書くのとは違い今は打ち込むだけでいいが、それでも思考には追いつけないし、考えたことをそのまま文字に起こしたら、支離滅裂な文章にしかならない。

漢字の変換機能は助かるが、こんな漢字を普段使うかとか、ひらがなの方がいいんじゃないかとか、逆に悩むことにもなる。たいていの場合、内容や文章の流れで使う文字や表現を決めている。全体的な雰囲気や読む時のわかりやすさを考えて、漢字かひらがなかを、さらには句読点の打ち方なども変えている。ひとつの投稿内では表現を統一するようにはしているが、投稿によって全然違う文体となることとなり、一貫性のないヤツだと思われるんだろうな。

一貫性がないといえば、キャラクターの呼び方なんかもヒドイ。”五条” “悟” “五条悟”。統一すべきだとは思う。だけどその時の内容や気分によって一番良いのを選んだ結果、そうなるのだ。だいたい人の呼び方なんて日常生活でも一定していない。一人称にしてもそう。みんなそんなもんじゃないのって思うんだけど、違うのかな。

昔よく見ていた「〇〇サスペンス劇場」系のドラマでは、残された遺書や送られてきたメッセージを書いたのが別人だと主人公が見破るシーンがよくあった。普段は「おかあさん」と書くはずなのに「お母さん」と書いているから遺書は偽造されたものだとか、送り仮名の書き方がいつもと違うとか、人の呼び方が違うとかの理由で、別人が偽装した手紙やメールだとわかってしまうのだ。この手のドラマが大好きだったから、当初は感心していたものだが、人生の荒波に揉まれるうちに「そんな単純なことあるかいっ」と、軽くツッコミを入れるぐらいにまで成長した。

「みんな見て、このひらがなの部分。他の投稿では漢字を使っているでしょ。だからこれは誰かがYUJIOKANのふりをして書いたんじゃないかしら」と、榊マリコは言う。※
違うんです。勢いで漢字にしちゃっただけで、書いたの私なんです。紛らわしいことして申し訳ございません。でも、人間ってそんなにきっちりしたもんじゃないでしょ。
なんて、要は自分の力量のなさの言い訳なのだった。

「ちょっと待って、ここの表現も前と違うわ。〇〇への呼びかけ方もバラバラだし。文体が一定してないこの文章は…YUJIOKANよ!これは彼女が書いたものよ!」
そう、マリコにはやっぱりわかってしまうのだ。


※榊マリコ
テレビ朝日系列で放送されている『科捜研の女』シリーズの主人公。事件は必ず解決し、お約束の掛け合いで終わるこのドラマは、私にとっては水戸黄門的な存在で、心の癒しともなってきました。1999年の放送開始から四半世紀が経ち、打ち切りも噂される昨今ですが、ほっと一息つける時間を届けてくれた科捜研に、辺境の地からではありますが、心より感謝の意を表します。
2025/12/13 Yujiokan

追記
『科捜研の女』は “ファイナル” と銘打った2026年1月23日のスペシャル版を最後に26年間の放送に幕を下ろしました。終わり方には複雑な思いもありますが、私の中で榊マリコは永遠に京都科捜研に存在し続けているでしょう。
2026/1/24 Yujiokan