文章を書くのは本当に難しい。
頭に浮かんだことを書こうとしても、まず指がついてこない。紙に書くのとは違い今は打ち込むだけでいいが、それでも思考には追いつけないし、考えたことをそのまま文字に起こしたら、支離滅裂な文章にしかならない。
漢字の変換機能は助かるが、こんな漢字を普段使うかとか、ひらがなの方がいいんじゃないかとか、逆に悩むことにもなる。たいていの場合、内容や文章の流れで使う文字や表現を決めている。全体的な雰囲気や読む時のわかりやすさを考えて、漢字かひらがなかを、さらには句読点の打ち方なども変えている。ひとつの投稿内では表現を統一するようにはしているが、投稿によって全然違う文体となることとなり、一貫性のないヤツだと思われるんだろうな。
一貫性がないといえば、キャラクターの呼び方なんかもヒドイ。”五条” “悟” “五条悟”。統一すべきだとは思う。だけどその時の内容や気分によって一番良いのを選んだ結果、そうなるのだ。だいたい人の呼び方なんて日常生活でも一定していない。一人称にしてもそう。みんなそんなもんじゃないのって思うんだけど、違うのかな。
昔よく見ていた「〇〇サスペンス劇場」系のドラマでは、残された遺書や送られてきたメッセージを書いたのが別人だと主人公が見破るシーンがよくあった。普段は「おかあさん」と書くはずなのに「お母さん」と書いているから遺書は偽造されたものだとか、送り仮名の書き方がいつもと違うとか、人の呼び方が違うとかの理由で、別人が偽装した手紙やメールだとわかってしまうのだ。この手のドラマが大好きだったから、当初は感心していたものだが、人生の荒波に揉まれるうちに「そんな単純なことあるかいっ」と、軽くツッコミを入れるぐらいにまで成長した。
「みんな見て、このひらがなの部分。他の投稿では漢字を使っているでしょ。だからこれは誰かがYUJIOKANのふりをして書いたんじゃないかしら」と、榊マリコは言う。※
違うんです。勢いで漢字にしちゃっただけで、書いたの私なんです。紛らわしいことして申し訳ございません。でも、人間ってそんなにきっちりしたもんじゃないでしょ。
なんて、要は自分の力量のなさの言い訳なのだった。
「ちょっと待って、ここの表現も前と違うわ。〇〇への呼びかけ方もバラバラだし。文体が一定してないこの文章は…YUJIOKANよ!これは彼女が書いたものよ!」
そう、マリコにはやっぱりわかってしまうのだ。
※榊マリコ
テレビ朝日系列で放送されている『科捜研の女』シリーズの主人公。事件は必ず解決し、お約束の掛け合いで終わるこのドラマは、私にとっては水戸黄門的な存在で、心の癒しともなってきました。1999年の放送開始から四半世紀が経ち、打ち切りも噂される昨今ですが、ほっと一息つける時間を届けてくれた科捜研に、辺境の地からではありますが、心より感謝の意を表します。
2025/12/13 Yujiokan
