そこで泣くのか


呪術廻戦で泣いたことがある人ってどのくらいいるんだろう。実際に泣いたとかじゃなくても、泣けるほど感動したことはあるのかなって。悲しくても、うれしくても。

映画となった懐玉・玉折が泣けると話題になったよね。エンディングに新しい画像を追加することで感動が倍増した。原作では描かれなかった日常の一瞬一瞬をとらえたカメラ視点の画像は、観ている者自身にその間の出来事を想像させる良い手法だったと思う。五条たちが過ごしたあの眩しい時代が遠すぎて、私が泣くことはなかったが、号泣したファンの気持ちはわかるつもりだ。

呪術廻戦では途中で命を絶たれる登場人物も少なくない。思い入れの強いキャラの死に涙する人もいるだろう。ただ、その描き方があまりに残酷かつ淡白だというのが私の印象なのだが、これは作者自身の性格や考え方も影響するのだろう。何にせよ、登場人物への思い入れが強すぎたら、作る方も先へ進めなくなっちゃうだろうし、ある程度は仕方ないと割り切るしかない。
そんなわけで、私のお気に入りキャラたちは口をあんぐり開けている間に消えていった。涙する間もなく。

いやいや、私だって感動するんだよ。でも、どうやら泣きのポイントが少々ずれているようで、実はそれがこれを書こうと思ったきっかけだったりする。
コミックス21巻・第185話。
お兄ちゃんとお姉ちゃんの魂を失ったパンダの話。涙と鼻水流して号泣した。なのにコミックスのオマケページには “185話は「何の話」と担当さんが各所に詰められてしまった” とあるのだ。唖然とした。何なら私が一番胸にこたえたとも言えるエピソードがわかんないの?!
そうか、人によって響き方がこんなに違うのか。

実はこれより前にティッシュを山のように積み上げて号泣したエピソードがあるのだが、奇しくもこれまたパンダとまさみち絡みの話だった。
コミックス17巻・第147話。
日下部の妹のエピソードが刺さりまくったのは私がオカンだからなのか。
まさみちが死んでしまうのは辛すぎたし納得もできなかったが、号泣ポイントはそのこと自体じゃない。まさみちが自分の作った完全自立型の呪骸たちに見送られるシーン。
「まさみちがいないとさびしいぜ」
オカンも死ぬほどさびしいぜ。
父ちゃんがいなくなったらこの子たちはどうなるんだろう。書いてるだけで涙出てくるわ。こんなヤツ、私以外におらんのだろうか。いつかきっと『まさみちと子どもたちTシャツ』作ろ。

で、最後に。
キャラの死で唯一泣いたやつ。
お兄ちゃん。
聞くところによると、コミックスでは連載時のものに加筆されているとか。最初はもっとあっけなかったらしいって話。ウソか誠かは知らんけど、まあ有り得るかな。加筆が本当なら感謝だよ。初めて心まで届いた死に様だったから。結局自分は肉親の情ってのに弱いんだろうな。

こういう話、誰かと語ってみたいという思いもあって始めたサイトなんだけど、やっぱり難しいみたいだね。呪術廻戦のこんなとこが好き、あそこでグッときた、あのシーンはどうだのこうだのって、できれば顔突き合わせて話せたら楽しかっただろうな。コタツでミカンとか食べながら。昭和だね。

いつの日か『呪術廻戦やら何やらを静かに語り合う場所』を作るのが今の私の夢だ。

空港にて


年とともに音楽から遠ざかっていたが、呪術廻戦と出会って3ヶ月ほど経った頃には、YouTubeで呪術の曲をヘビロテで聴くようになっていた。問題は音楽だけじゃなく、いわゆるネタバレサイトも数多く上がって来るようになったこと。コミックスに何とか追いついた2023年12月頃、少し前からそこは五条悟の死と復活の可能性ネタでお祭り状態だった。絶対に見るまいと思っていても、否が応でも視界に入る衝撃的な見出し。血を流す五条の死に顔をトップに据えるなんてことがあり得るのか。

そんな中、妙に違和感のある “空港” という言葉がやけに目についた。こんな時に空港って何だ。こらえきれずサイトのいくつかをチラッと覗いてしまった。どうやらその “空港” とやらで五条が今後の行き先を選択するらしい。北は全く新しい自分、南は過去の自分。とにかく私はこんな風に理解してしまった。地獄はここから。

続く25巻で再び悟を拝めたのに、それがいつまでも続かないのを知っている辛さ。何とか戻って来てもらわなければ。得意の妄想が暴走する。

硝子の反転術式でも復活はムリっぽい
   ↓
全く別の形で戻るしかない
   ↓
あの作者のことだから、読者の心を完全に打ちのめすような姿だよな
   ↓
呪霊とか、呪骸とか?
   ↓
パンダだ! 失われた核のひとつとなるのだ(どうやってかは知らんけど)

この妄想地獄で私はある決意をした。
“空港” に着いたら自分自身の目で五条の行き先を見極めてみせると。

そして待ちに待ったコミックス26巻。表題などには目もくれず、あの残酷な場面に備えつつ、震える指でひたすらページをめくる。
「空港?」
突然予想外の世界が広がった。一瞬ページを飛ばしてしまったか、落丁なのかと思った。何でいきなり空港なんだ。しかも想像していたのと全然違う。”飛んで行った飛行機は北の方角…” って、飛んで行く飛行機なんてどこにもない。私は何を、どんなヒントを探せばよいのか。まるでキツネにつままれたようだった。身構えていた場面はその直後にやって来た。オワタ…

ネタバレサイトなんて絶対見るものじゃない。少なくとも私のようなど素人が手を出す領域ではない。必ずしも真実だとは限らない情報を先に頭に入れることは、本来味わえたはずの感動や驚きを得る機会を失ってしまうということ。妙なバイアスがかかり、本来見えるはずのものが見えなくなる可能性があることをきちんと理解しておくべきだ。

それから何度も26巻を読み返し、その内容を反芻し、ある日突然目が覚めた。
「みんな制服だよな」
考えてみれば、あそこでの会話には生前の五条が知り得ない事実も含まれていた。『これが僕の妄想じゃないことを祈るよ』と彼は言ったが、確かにあれは妄想なんかじゃなかった。私はようやく気がついた。五条悟はあそこから飛び立つのではなく、あの空港に降り立ったのだと。あらためて26巻を手に取り、ゆっくりと、心静かにページを繰る。答えは最初からそこにあった。

236話 南へ

このエピソードタイトルは、五条悟が表紙となっている26巻の表題ともなっていた。ネタバレなんて本当に見るもんじゃない。そしてタイトルはちゃんと見るべきだ。

さて、自分だったらどの方向を選ぶだろう。北に行く場合、今の記憶を持ったままなのだろうか。だったら少しはまともに生きられそうだが、オオアリクイとかサバとかムラサキウニとか、人間じゃないものになるのはゴメンだ。なら南かと言えば、私の人生で戻りたいと思えるような場所がどこかにあっただろうか。楽しそうに笑う悟たちの姿を見て、泣いていいのか笑っていいのかわからなくなる、そんな “空港” だ。

なぜ乙骨は当主代理なのか


正確に言えば【なぜ乙骨は五条家当主代理なのか】である。
答えは簡単、新宿決戦後の五条家には跡を継げる人間がいなかったから。
物語が始まった時点では五条悟が五条家の当主であり、まさに唯我独尊状態であった。その彼がいなくなったとなれば一体誰が跡を引き継げるのか。生きているとされる彼の両親は年齢的に除外するとして、血族を遡れるだけ遡ったとしても呪術師として五条家を率いることができる人物が見当たらなかったと推測できる。だからこそ、五条家とは遠い遠い親戚とされる乙骨憂太が選ばれたのだろう。しかも彼は五条悟を凌駕するほどの呪術師なのだから。

いや違う違う。
ここで問題にしているのは、なぜ当主ではなく当主代理なのかだ。
これまた答えは簡単、正当な五条家当主となりうる人物が現れる可能性があるから。その可能性には大きく分けて2つの道筋がある。
1.生き残っている親族の子孫から
2.五条悟の子孫から(【五条悟は子孫を残したか?】参照)

エピローグ パンダを読んだ瞬間、乙骨憂太は五条悟の子孫を待っているんだなと直感した。その可能性があるからこそ当主代理を引き受けたのだ。「わかりました。五条先生の跡を継げる術師が現れるまで、あくまで当主代理として僕が五条家を守ります」的なこと、いかにも言いそうだし。その人物が現れるのは恐らく数百年後になるであろうが。

新宿決戦から500年の時が流れたある日、六眼を持った白髪の子供が五条家にやって来る。(妄想暴走中)
代々当主代理を務める乙骨家は大混乱に。六眼のことなど言い伝えでしか聞いたことがない。「確か忌庫に初代当主代理の残した巻物があったはず…」
埃まみれで虫食いだらけの巻物にはこうあった。

新たなる呪術廻戦の幕開けだ。


誰か私を止めてくれ~!

五条悟は子孫を残したか?


呪術廻戦について共に語る仲間もいない、YouTubeや検索サイトで目にする動画やブログをチラ見する程度の知識しかない私にとって、この疑問=家入硝子は悟の子を身ごもっていたか?であり、その答えは自明の理だと考えている。これがファンの間で共通認識なのか、それともまったく見当はずれの個人的妄想なのか、作者自身がどう考えていたのか、知りたいのはやまやまなのだが、他人の見解に振り回され心がかき乱されるのが嫌なばかりに、今日まで自分自身で作り上げた呪術の世界に閉じこもってきた。

家入硝子は相当ドライな女である。いや、ドライというよりむしろサイコパスに近いものさえ感じる。もちろんこれは飛躍のし過ぎだとわかってはいるが、共に学んだ夏油傑や五条悟の亡骸を平然と(あくまで表面的には)処理する様子などを見るにつけ、彼女には感情や心というものが欠けているのではないかと思ってしまうのだ。もし五条に「まさかの時のため子孫を残すのに手を貸してくれないか」的なことを言われたら、「ま、いっけどさ」とタバコ加えながら答える姿が私には容易に想像できる。宿儺との最終決戦の前に五条がやっておきたかったことの一つがこれであっても不思議ではないし。まさに一発勝負ではあるがww

家入が身ごもっていたと考える根拠は、新宿決戦後、彼女が伏黒と共に伏黒家の墓を訪れるシーンにある。見た途端彼女の服装に違和感を覚えた。
家入硝子があんなにふんわりしたワンピースを好んで着るだろうか?
私の目から見れば、あれはどう考えてもマタニティ喪服だ。さらにその後、吸っていたタバコを箱ごと捨てるシーンが続く。伏黒家を含む多くの一族が眠り、その子孫たちが守ってきた墓地においてだ。どう考えてもそうでしょ。

というわけで、この解釈は私の中ではもはや既成事実であり、これが【なぜ乙骨は当主代理なのか】につながっていくのである。

連載が終わって

2025年10月現在のお話です

呪術廻戦の連載が終わり早一年。コミックスで後追いしていた私の場合、ラスト30巻を読んでから10ヶ月近くが経つことになる。あの時の感動やうれしさ、悲しみ、喪失感がごちゃ混ぜになった気持ちは、今も心の中で疼いている。

コミックス最終巻で追加されたエピローグ4編については、正直なところ無かった方がよかったと思う。読者にその後を委ねる形が私の理想だから。エピローグ裏梅は本編の前日譚なので除外するとして、釘崎野薔薇も彼女のバックグラウンドに関わる話なのでむしろ前日譚に近い。小沢優子は主人公虎杖悠仁のその後がやんわりと描かれており、今後の展開を暗示するものとなっている。この3編は作者から読者へのプレゼントとして受け取ることもできたが、問題はパンダ。兄と姉の核を失ったパンダのその後が描かれていることは確かだが、連載が決まっていたと思われる新たなる展開への布石であることは明らかで、私にとっては後味の悪いエピローグとなってしまった。

本編の終わり方については賛否両論あるだろうが、個人的にはハッピーエンドと捉えられるあの形でよかったと思う。伏黒恵の最後は決まっていて、虎杖・伏黒・釘崎・五条のうち1人が死ぬか1人だけ生き残るかどちらかだったという作者の言葉を信じるならば、あの選択がベストだった。生き残った伏黒が、すべての罪を背負い独りぼっちで戦い続ける姿など誰が見たいと思うだろう。

さて、ここからが本題。(遅すぎ)
私が一番気になったのは新宿決戦で決着がついた後の日常が、あまりに日常だったこと。平和すぎやしないか?
連載中で一番驚いたのは、呪力や呪術師について米国を筆頭とする大国が知るという大風呂敷?を広げてしまったことだ。実際、死滅回遊には米軍や他国からと思しき軍隊が派遣されストーリーに大きな影響を与えている。呪力という “人類史上最もクリーンなエネルギー” を求める大国によって、日本が大混乱に陥っていてもおかしくない状況だったはず。映画『マトリックス』のように管につながれ呪力を吸い取られる日本人たちの姿までバッドエンドの候補として考えていた私にとって、かの平和な日常はかなり拍子抜けだった。

そこでだ。
そこで登場するのが当時放送されたテレビドラマ『全領域異常解決室』だ。見ていなかった方には申し訳ないが、簡単に言うと「日本には今でも八百万の神々が存在していて人々を助けている」というもの。神々は神の宿った人間から神に関する記憶を消す能力を持っていて、一般の人間の記憶の一部も消せるという設定で、この能力を使う呪文が 事度(ことど)を渡す であった。
これだっ!
呪力のことを知った者たちは皆 事度を渡された のだ!
ドラマに結構ハマっていた私は一も二もなくこの説に飛びついた、というよりすがった。

こうして私は少しだけ枕を高くして眠ることができるようになった。(ウソ)

呪術廻戦≡(モジュロ)について

衝撃だった。

芥見下々原作で作画が別人の呪術廻戦新作がジャンプで新連載?

この驚くべき知らせはブログを始めようと決意した矢先「アニメ死滅回遊編が2026年1月より放映決定」に始まる一連のニュースがなだれ込んでいた頃にもたらされ、私を天国から地獄へと一気に突き落とした。

放映中のアニメを偶然見かけて興味を持ち、コミックスを借りて読みはしたが、このまま呪術を追いかけていいのか?と自問した時期があった。決め手になったのは作者自身が「最終回や要所要所の結末は決まっている」と答えていること、その後ジャンプの連載終了予定が発表されたことだった。

漫画に限らずアニメでも小説でもテレビドラマでも映画でも、基本的には作り手の思いやメッセージがあり、メディアはそれを伝えるための手段だと思っていた。だから一つの物語はその終わりに向かって走り、最後に到達した時点でキチンと幕を下ろして欲しいのだ。エンドを決めずに走り出し、そのまま行けるところまで行くタイプのものもあれば、最初からサーガ的なものを目指すのも、それはそれとして良しだと思う。けれどそうではない場合、派生的な話を加えたり、続編を作ったり、ドラマで言えば当初の予定以上にシーズンを続けたりして、最後はグダグダになって終わっていったものを何度も見てきた。それは最初の作品を貶めることにつながりはしないか?

私は呪術廻戦が好きだ。

この世界に引き込んでくれた芥見下々という漫画家には敬意と感謝しかない。だから彼or彼女自身が原作を担当しているモジュロについて、とやかく言う筋合いでも権利もないことはわかっている。わかってはいるが、あふれる想いは止められない。
呪術廻戦のその後をあのまま読者に委ねられなかったのか?
続けるとして、体力と気力が戻った数年か数十年後にご自身の手で描くという選択肢はなかったのか?
マンガが小説と決定的に違うのは、文字より絵がメインであることだろう。もし呪術廻戦を芥見下々以外の漫画家が描いていたら、おそらく私は今この場にいなかった。マンガにおける描き手はそれだけ重大な要素なのだ。

とはいえモジュロはすでにスタートしてしまった。昨今のネット社会とは恐ろしいもので、検索画面を開いてもYouTubeを開いても、頼んでもいないのにモジュロ情報が目に飛び込んでくる。見ちゃったらついつい覗いてみたくなるのが人の性。こうして私はモジュロが諸手を挙げて迎え入れられている様や、ストーリーが如何に本編とつながっているかまで知ることとなり、それが呪術に対する幻滅感へとつながっていった。呪術廻戦の世界観はどこへ行ってしまったのか。あの形で連載を始めるのなら、呪力・呪術という概念だけを使い、本編に頼らない全く新しい別次元のストーリーにするべきではなかったのか。約6年半にわたる連載の歳月は一体何だったのだろう。

私の疎外感は日に日に強まっている。こんなことを考えているのは私だけかも知れない。このタイミングで呪術愛を語るサイトを開いてしまった不運を呪うしかないが、今更どうしようもない。サーバーとの契約はとりあえず1年。この1年を当初の予定どおり呪術廻戦本編について考えていこう。本編で解明されなかったことや個人的な疑問や思いを綴っていきたい。悠仁たちはあの後どんな風に生きたのか、呪術高専や日本はどうなったのか。読者が自身の想像の翼を広げ呪術を味わうのも一つの楽しみ方だと信じる私は、あわよくば共に語れる仲間を見つけられることを夢見ている。

モジュロで語られる真実?は当面の間なかったことにする。今のところ雑誌の連載を読む気はないし、3冊ほどになるというコミックスも目を通すか否かは自分でもわからない。ひょっとすると1年後モジュロフリークになっている可能性すら否定できない。ただ、私はジイさんになった悠仁や恵の姿は見たくないし、その背後の奇想天外な話も聞きたくない。呪術のキャラクター達にはずっとあのままの姿でいて欲しいという想いは変わることがないだろう。

人間年を取れば丸くもなるし聡くもなると思っていたが、私の了見の狭さや偏屈さ加減は弱まることがないらしい。モジュロが不人気で連載打ち切りになることを密かに願っている自分が情けない。いっそのこと悠仁にぶん殴ってもらい悟やななみんのところへ行ってしまいたい。今はそんな気分だ。