聖地TOKYO

呪術廻戦のタイムラインを考えるにあたり、身に染みて思うことがひとつある。それは物語の舞台への土地勘のなさだ。作品中では作者ゆかりの東北の都市が舞台となることも多いが、さすがにそこら辺が不案内なのは仕方がないとあきらめもつく。しかし、舞台の大部分を占める東京についてならどうだ。

渋谷に現れた半径400メートルの帳と言われても、その場所を知らない私にはまったくイメージがつかめない。渋谷駅構内、悠仁がななみんに向かって叫んだビル、五条と宿儺が戦った場所、日車のいた劇場などなど、数え上げればキリがない多くのスポットが、実在していると聞く。海外での認知度が高く有名どころも多い日本の首都だけに、それらがすぐにピンとくる人も多いはずだ。それらを知っていれば、各場面の距離感や時間の推移が現実のものとして把握でき、ストーリーの理解も深まるだろう。何より、呪術廻戦をより楽しめたんじゃないだろうか。

たとえばもし、舞台が私の生活圏だったとしたら。毎日の通勤に使う駅から悠仁が走ったと思しき跡をたどってみたり、あのファミレスは多分ここだよな、なんてことを考えたりするだけで心がワクワクするだろう。
そんな気持ちを味わうために、人は聖地巡礼をするのだろうか。ゆかりの地を訪れ、そこにいたはずの登場人物たちに想いを馳せる。それは、古い街並みでかつてそこに暮らしていた人たちを想ったり、カフェに座り窓の向こうを通り過ぎる人たちの生活を勝手に想像したりする私の妄想トリップにも少し似ている気がする。そんな時間は、自分にとって限りなく貴重で幸せな時間なのだ。

もし私が東京圏に住んでいたら、休みのたびごとに、物語に登場したと思しきスポットをひとつひとつ巡ることもできたんじゃないか。それだけじゃない。関連イベントなどの開催も東京のみか、地方に来ても数か月どころか年単位でタイムラグが生ずる。東京圏にいることは、それだけで優位性があるのだ。移動にかかる時間もお金も、地方よりずっとずっと少なくて済むだろう。
そういえば私は未だに東北にも行ったことがないのだった。喜久福も食べたことない。どうせなら仙台に行って喜久福食べたいな。東京圏からなら東北もそこまで遠くはないはず。少なくともここからよりは。

昔と比べれば、今の日本はどこへ行くにも楽に短時間で移動ができる。東京都心に住んでいなくとも、近郊の町や県から東京へのアクセスは格段に良いはずだし、遠くの府県からも日帰りできるぐらいの交通網も整備されている。だけど現実には、誰もが気軽に飛んで歩けるわけでもない。必要なのは時間と金と情熱、そして行動を起こすエネルギーか。今の私にあるのは情熱だけだ。

テレビの全国ニュースで取り上げるのは東京近郊の話題が中心。今や日本の人口の約3割が東京圏に住んでいるというから※、それも仕方のないことなんだろう。もう30年以上も東京に足を踏み入れていない私にとって、そこはもはや別の世界。私には関係のない、行くべき理由もない場所だった。だけど今何が一番悔しいって、東京圏に暮らす3割の中に自分が入っていないことだ。


※注)
令和2年の国勢調査によります。先ごろ令和7年度の調査があったばかりですが、東京圏に暮らす人の割合は増加しているのではないでしょうか。

死滅回遊に死す


映画観てきた。
渋谷事変特別編集版X死滅回遊先行上映。封切からちょうど1週間。平日の朝イチとはいえ、先月の呪術廻戦0再上映に匹敵するほどガラ空きなのに、特典のビジュアルボードはしっかり無くなっていた。休みを取って、あえて平日を選んだのだが、さすがに遅すぎたか。

Googleの検索画面を開くたびに、トップ付近に現れる映画レビューのいくつかをついつい読んでしまっていた。人によって評価はバラバラ、というか、そもそも呪術廻戦が好きな理由も、恐らくはそこに起因する観点も、見事なくらいに違うことを今更ながらに実感した。はしょりすぎ、アニメオリジナル多すぎ、よくまとめた、引きのアングルばっか、渋谷事変の主題歌がいい感じで入ってた、などなど。チェンソーマンに比べたらカス、なんてのもあったな。目を通したのはほんのわずかなんだけど、次に続く死滅回遊への期待という点は共通していたように思う。

もともとTV用のアニメをまとめたものなので、劇場用としての出来など期待しようもない。「初めて観る方にもお楽しみいただけるような…」って、楽しめるわけないじゃん。この映画はあくまで呪術廻戦を観た(もしくは読んだ)こと前提で、なおかつ呪術廻戦が好きな人のために作られたものだ。早く観たいし特典も欲しい。公開直後に人が集中するのは当然だよね。

こんなことを書いている私はといえば、正直な話、呪術廻戦を投げ捨てようとしたことが一度だけあって~いや、モジュロの件は当然除外だよ~それがこの死滅回遊編の始まりなのだ。死滅回遊のルールが提示された時の「???!」は忘れようにも忘れられない。「なんじゃこりゃ、全然違う話になっちゃったじゃない。プロレスかよ!?」
ものすごいショックで、大人買いしたコミックス24巻すべてを投げ捨てようと~比喩でじゃなくて本当に~物理的に投げ捨てようとした。手を止めた理由は、手にしていた24巻目の表紙が、意味不明に大好きな華ちゃんだったという奇跡と、ここまで来て止めるのかという意地にも似た感情だった。

そこで私は呪術廻戦を追い続ける二つの理由を半ば無理やり作り出した。

1.とにかく悟が箱から出てくるまでは死んでも死にきれないでしょ
2.プロレスリングがいつまでも続くわけがない。最後にはきっと悠仁が強くなって宿儺を倒すに違いない。オカンとしてそれを見届けなくていいのか

以上の2点を持って私は呪術にしがみついてきた。1についてはファンの方ならご存じの通りの結末となったが、コミックスで後追い派の私は、最後までずっと悟の復活を期待して追い続けることができた。その一方で2の方は厳しかった。本当に苦しかった。映画でもわかるとおり、死滅回遊以降の主役は乙骨に奪われた形で、悠仁は乙骨やこれから現れる猛者たちの下で、サポートのような役回りとなる。待っても待っても活躍とは程遠く、最後にやっと…どうなったんだろ。

呪術廻戦の結末については、悠仁・恵・野薔薇の3人が揃う、希望のある終わり方に賛辞を贈りたい。残念ながら悟が戻ることはなかったが、バッドエンドもささやかれる中、よくあの形にしてくれたと感謝している。ただ、あまりにも淡白だった感は確かに否めない。察するに、時に非難を浴びながらも描き続ける苦しみからようやく解放され、作者の心は既に次の世界へのワクワク感でいっぱいだったのではなかろうか。まあ、いつもの勝手な妄想だけどね。

レビューにもあったように、映画では渋谷事変の大部分のシナリオはカットされ、次の死滅回遊も然り、更に原作にはないシーンも追加されているのが目を引いた。ただ、決して消してはいけなと思う大事なセリフはしっかり残されており、追加されたシーンは渋谷事変後の悠仁の行動と心を映し出す、原作では描き切れていない部分に焦点を当ててくれたことを評価したい。物語をギリギリまで絞ったことにより、セリフのひとつひとつの重みがストレートに心に響き、ストーリーのど真ん中にある本筋、少なくとも私がそう信じている根っこの部分を再認識させてくれた。虎杖悠仁はこれからも人を助けて生きていく。じいちゃんの言ったとおりに、信じる仲間たちと共に。呪術廻戦の主人公は虎杖悠仁だと、私にもう一度信じさせてくれてありがとう。私やっぱり呪術廻戦大好きやわ。

アニメ死滅回遊編がどんな風に進むのか、原作どおりなのか、そもそも最後まで作られるのかすらわかっていなかった。が、今回の映画のパンフレットには「死滅回遊前編」という記述があるので、多分最後まで作ってくれるのだろう。映画を観る限り、私の想像以上に展開が早く、ひょっとしたら一気にラストまで突っ切ってしまうのかも知れない。どうなろうとも、ここまで来たら最後まで伴走するつもりだ。最後まで走り切って、そこできっちり終わって欲しい。アニメだけは。お願い。

六十数年後のことなんて、もう知ったこっちゃない。これからの死滅回遊は、悠仁にとっても私自身にとっても苦しさの連続であることは承知の上だが、私にとっての大切な本筋を見失うことなく、最後の呪術廻戦を楽しんでいこう。死滅回遊で私もサイトも死ぬかどうかなんて、その時になったら考えればいい。

マンガかアニメか

アニメという言葉を一つのジャンルとして意識しはじめたのは『機動戦士ガンダム』(もちろん初代)が放映されていた頃。映画化もされ、ニュース番組などにも取り上げられるくらいちょっとしたブームになっていた。マンガに関しては『小学1年生』にはじまり『なかよし』『リボン』『少女フレンド』などなどを友達同士で回し読みするごく普通の少女時代を過ごしてきたが、中学後半になるとマンガをほとんど読まなくなっていた。テレビで見るのは歌番組かドラマ。『ドラえもん』や『サザエさん』にアニメという特別な認識はなく、家族で見るテレビ番組もしくは子供向けの娯楽番組としか思っていなかった。

そこに現れたのがガンダムである。私は一気に虜になった。自分のオタク気質を自覚したのもこの時で、突如スポットが当たりはじめた声優という職業に憧れを抱いたものだ。腐女子なんて言葉が出現したのも多分この頃。自分自身についてほぼ自虐的に使いつつも、ほんの少しだけ嬉しい気持ちもあった。当時は「アニメが好き」「マンガが好き」と大っぴらには言えない雰囲気があった。

時は流れ、今やマンガやアニメは日本の代名詞とも言うべきコンテンツ文化となった。好きを公言しても、かつてほど引かれることもなくなった。押し活の対象はアイドルや俳優のみならずマンガやアニメのキャラクターにまで及んでいる。私はその波に一切のまれることなく過ごしてきた。世界がコロナ禍に見舞われる2020年はじめ頃までは。

コロナ禍が世界を襲う少し前、「鬼滅の刃の伝道師」を自称する若い同僚が職場にコミックスを持ち込み、その回し読みルートの中に私もすっぽり収まった。世間では鬼滅の刃大フィーバーが起きており、老いも若きも鬼滅、鬼滅。炭治郎の羽織柄マスクをした子供たちがそこら中を徘徊しているのを見れば、否が応でも興味が湧く。老眼という難敵と闘いながら何十年ぶりかで読むマンガ。決して面白くなかったわけではない。けれど世間がここまで騒ぐほどの魅力を感じることはできなかった。配信でアニメ版を見た同僚が「マンガよりわかりやすいし面白い」と勧めてくれた時も一向に食指が動かなかった。私の中のアニメは何十年か前で止まったままだった。今思えば、それが私の現在地を決めるきっかけとなったのかもしれない。

深夜に放映していた呪術廻戦を見かけた時、かつてのアニメとは全く違うことに驚いた。画質の粗さや絵の乱れ、同じシーンの使いまわしといった印象しかなかった認識が見事に覆された。配信されていたアニメ版を一気見し、続けざまにコミックスを読破して更に驚いたのは、マンガの内容がそのままアニメになっていることだった。セリフまで変えられることなく使われている! マンガをアニメ化する場合、ストーリー自体が改変されるのはおろか、キャラが追加されたりデフォルメされたりするのが当たり前だと思っていた私には衝撃だった。とはいえ、どう近づけてもマンガとアニメは違う。マンガを読む時、私は小説を読むのと同様に登場人物の声を頭の中で作り上げ、描かれていない部分を想像力で補っている。自分で作り上げたイメージが壊れることが嫌で、アニメ化や実写化には反対の立場だった。だが呪術廻戦との出会いが、この考えを根底から覆した。マンガを読む私の頭の中では、声優中村悠一のイケボイスで話す超がつくほどカッコいい五条が勝手に動き回っていた。もし先に出会っていたのがマンガの呪術廻戦であったら、こんな風にブログを書いている私は存在しただろうか。正直なところ「もちろん!」と答える自信はない。

どんな形で作品に出合うか、小説なのかマンガなのかアニメなのか、はたまた実写化されたドラマでなのかで印象はがらりと変わる。それぞれを比較しながら楽しむ人もいれば、マンガ派アニメ派と呼ばれるように一つのメディアだけに絞る人もいる。同じメディアではあっても描かれ方一つで好きから嫌いになったりもする。そんな微妙なバランスの中で私たちは生きている。

時は2025年10月。映画版第二弾の鬼滅が世界を席巻している今、呪術廻戦も大きく動こうとしている。目や耳をふさいでいても情報が飛び込んでくるこの時代に、アニメ派の呪術ファンたちが今後の展開を全く知らないなんてことがあるのかどうかは知らないが、アニメ『死滅回遊編』を見て彼らは何を思い、どう行動するのだろう。