そこで泣くのか


呪術廻戦で泣いたことがある人ってどのくらいいるんだろう。実際に泣いたとかじゃなくても、泣けるほど感動したことはあるのかなって。悲しくても、うれしくても。

映画となった懐玉・玉折が泣けると話題になったよね。エンディングに新しい画像を追加することで感動が倍増した。原作では描かれなかった日常の一瞬一瞬をとらえたカメラ視点の画像は、観ている者自身にその間の出来事を想像させる良い手法だったと思う。五条たちが過ごしたあの眩しい時代が遠すぎて、私が泣くことはなかったが、号泣したファンの気持ちはわかるつもりだ。

呪術廻戦では途中で命を絶たれる登場人物も少なくない。思い入れの強いキャラの死に涙する人もいるだろう。ただ、その描き方があまりに残酷かつ淡白だというのが私の印象なのだが、これは作者自身の性格や考え方も影響するのだろう。何にせよ、登場人物への思い入れが強すぎたら、作る方も先へ進めなくなっちゃうだろうし、ある程度は仕方ないと割り切るしかない。
そんなわけで、私のお気に入りキャラたちは口をあんぐり開けている間に消えていった。涙する間もなく。

いやいや、私だって感動するんだよ。でも、どうやら泣きのポイントが少々ずれているようで、実はそれがこれを書こうと思ったきっかけだったりする。
コミックス21巻・第185話。
お兄ちゃんとお姉ちゃんの魂を失ったパンダの話。涙と鼻水流して号泣した。なのにコミックスのオマケページには “185話は「何の話」と担当さんが各所に詰められてしまった” とあるのだ。唖然とした。何なら私が一番胸にこたえたとも言えるエピソードがわかんないの?!
そうか、人によって響き方がこんなに違うのか。

実はこれより前にティッシュを山のように積み上げて号泣したエピソードがあるのだが、奇しくもこれまたパンダとまさみち絡みの話だった。
コミックス17巻・第147話。
日下部の妹のエピソードが刺さりまくったのは私がオカンだからなのか。
まさみちが死んでしまうのは辛すぎたし納得もできなかったが、号泣ポイントはそのこと自体じゃない。まさみちが自分の作った完全自立型の呪骸たちに見送られるシーン。
「まさみちがいないとさびしいぜ」
オカンも死ぬほどさびしいぜ。
父ちゃんがいなくなったらこの子たちはどうなるんだろう。書いてるだけで涙出てくるわ。こんなヤツ、私以外におらんのだろうか。いつかきっと『まさみちと子どもたちTシャツ』作ろ。

で、最後に。
キャラの死で唯一泣いたやつ。
お兄ちゃん。
聞くところによると、コミックスでは連載時のものに加筆されているとか。最初はもっとあっけなかったらしいって話。ウソか誠かは知らんけど、まあ有り得るかな。加筆が本当なら感謝だよ。初めて心まで届いた死に様だったから。結局自分は肉親の情ってのに弱いんだろうな。

こういう話、誰かと語ってみたいという思いもあって始めたサイトなんだけど、やっぱり難しいみたいだね。呪術廻戦のこんなとこが好き、あそこでグッときた、あのシーンはどうだのこうだのって、できれば顔突き合わせて話せたら楽しかっただろうな。コタツでミカンとか食べながら。昭和だね。

いつの日か『呪術廻戦やら何やらを静かに語り合う場所』を作るのが今の私の夢だ。

Angel


さっきチラッと見たけど大丈夫か。
来年早々に始まる死滅回遊前編の映像。
華ちゃん、別人じゃないか?
大丈夫なのかい。
....................

来栖華が好きだ。
つい先日の投稿で、女性がどうのこうのとフェミニストまがいのことを書きなぐっていたのに、何だよオマエは。あの子は助けてくれた男を一途に愛する可愛くてか弱い女の子そのものでしょ。一番嫌いなタイプなんじゃないの?

確かに、初めて見た時は「出たよ、ふわふわの女の子キャラ」って思った。でもね、伏黒との出会いからの経緯をたどっていくと、その愛はむしろ忠犬ハチ公に近いと思うわけ。命を救ってくれた人に自分のすべてをささげる。あのキャラは別に女性でなくてもいい。だって天使なんだもん。

クロスと天使のモチーフが好きです。華に惹かれたのもそれが理由だったのかも。天使は人間ではないので本来性別もないのですが、時代や描き手によって見た目が男性だったり女性だったりするようです。華ちゃん、違和感ないでしょ?

人間何事も突き抜けちゃうと、もはや尊敬の域に達するってことを直哉について書いたことがある。王子キャラを貫き通し、大嫌いから “あっぱれ” へと個人的評価を覆してみせた及川光博みたいなもんか。(←違うと思う)
一度命を救ってくれた人を追い続け、自らの命を差し出しても守りたいという天使の思いに負けたのかも知れない。受肉した肉体との共存を選んだ顔も知らないおっちゃんの人徳もある…のか。可愛い顔をした女の子の中におっちゃんがいるというアンバランス感も華の魅力だ。

新宿決戦後、受肉した術師とホストの体を分ける方向に進めることが示されているが、華と天使(おっちゃん)の場合はどうだったのだろう。引きはがされた過去の術師は死を迎えることになるのだが、真希は彼らに生きる道を示して見せた。華は?
華も同じ道~彼女の場合は “共存” ということになる~を選んだと私は思う。もちろん傍らの伏黒もそれを否定しなかったと。そして二人はその後幸せに…ん、二人?
アカン。この先を想像するのはやめとくわ。

呪術廻戦の変節を機にグッズ収集もおしまいにしたはずなのに、時々覗いてみたくなる中古グッズの店。アウトレットのカゴの奥に沈んだ華ちゃんを見つけると、ついついサルベージしてしまう私がいる。どうやら私と呪術はもはや引き離せないものとなってしまったらしい。受肉体のごとく。

2026年が良い年でありますように

Time flies

「もう1年経つのか…」
ようやく大掃除を始めた私の前に立ちはだかったのは、呪術廻戦コミックス29・30巻発売を知らせる新聞広告。2024年12月24日と発売日当日の25日に、読売・朝日・毎日新聞にそれぞれ別の絵柄で掲載されたものだ。つてを頼りに各紙を集め、発泡スチロールに貼って壁に飾れるようにしたのはいいが、スペースがなく私室の床の上で丸一年過ごさせてしまっていた。これを見るたび、1年前の嬉しさと淋しさが入り混じった感情がよみがえる。

この年~2024年の7月、東京では 芥見下々『呪術廻戦展』が開催された。翌年春以降に大阪でも開催すると発表はされたが、いつもながらの東京圏の優位性を思い知らされる日々だった。ほぼ1年後とは何て先の話なんだと思ったが、その1年弱の月日はあっという間に過ぎ、今年の4月と5月に初めて『呪術廻戦展』なるものに足を運んだ。思えばあの時が私の呪術人生のピークだった。のぼせ上がってグッズを買いまくり、受注生産の大きなアクリルスタンドまで注文した。その後ぐらいからかな、流れが一気に下降し始めたのは。何度目かの人生の曲がり角だったのかもしれない。

” Jujutsu is everything.”
この言葉を私は「呪術(廻戦)がすべてだ」という意味を込めてサイト名とした。実際これが英語として正しい使い方なのかはわからないが、自分の気持ちだけで勢いでつけたものだ。
だが、現実の生活は呪術がすべてというわけにはいかない。自分一人なら自分勝手に好きなことをしていられる。東京だって仙台だって行きたいところがあれば何処へでも行けただろう。でも、人生そんな簡単にはいかないんだ。

今年の春以降、身の回りでいろんなことが起き、気分が滅入る毎日に最後の打撃を食らわせたのが他でもない『呪術廻戦』だった。あんな形で純然たる続編を作るとは夢にも思っていなかった。しかも死んでも触れて欲しくなかった過去のキャラ達まで次々と出して来ていると聞く。細々とでも呪術への愛を語っていこうという私の思いは一気に崩れ去った。(※私自身、あれを1ミリも読んだことはありません。すべてネタバレサイトの見出しや勝手に上がって来るネット情報を見た限りの話なので、もし間違っていたらすみません。)

9月の終わりに悠仁と悟の巨大アクリルスタンドが届いた時、嬉しさは半減していた。ブログを書いても自分でも嫌になるほどマイナスな方向に走ってしまい、じゃあいっそのこと止めちゃえばと何度も思った。止められなかったのは心の内を吐き出せるのがここしかなかったから。1年はあっという間だったはずなのに、今は『呪術廻戦展』が遠い昔のように感じられる。
そんな私のもとに昨日届いたのが、のぼせ上がった勢いで半年前にネットでポチっていた “悟ランプ” だ。なんともはや、このタイミングで届くとは。なのにこのランプの光はあたたかかった。デフォルメされた可愛らしい悟の放つ光は暗闇を照らす灯台みたいに感じられた。

五条悟のランプ

思えば去年の今頃は、おせち料理をどうするか、年賀状をやめるかなど毎年恒例の問題に頭を悩ませつつ、クリスマス当日にコミックス29・30巻を買った直後にインフルエンザにかかりダウンしていたのだった。そこに届いた郵便物。「メリークリスマス」と書かれたクリアファイルに入っていたのは、29・30巻購入特典のポストカード全種4枚。同僚たちからのプレゼントだった。うれしくて涙が出た。

来年の今頃、私はどうしているだろう。サイトは続けているのかな。自分でもわからない。きっとこの1年もあっという間に過ぎていくだろうし、おせちはどうしよう、年賀状どうしようと同じことを言っているんだろうな。年の初めの願い事も多分いつもと同じ。
「今年こそは良い年でありますように」

呪術廻戦コミックス最終巻新聞広告
さて、これらをどうしたらいいのかな。
右上は同僚からの愛の結晶のポストカード。こちらは額に入れて飾っています。

GIRLS


このカテゴリーではキャラクターへの思いをぶちまけてきたが、女性が一人もいないことにお気づきか。避けているわけではない。単独で語りたいと思う対象がいないのだ。私が女性だから男性にしか目がいかないのだろうか。

二言目には「女が」と言われて育ってきた。頭の良い女は嫌われる。常に男の後ろを歩く “わきまえた” 人生。求められているのは、かわいさ、か弱さ、従順さ、もしくは単なる性的対象か。成長するに従い、そんな現実にもステレオタイプな女しか出てこないメディアにも辟易するようになった。

一年ズ~虎杖・伏黒・釘崎~は、男×2+女×1のド定番の構成だ。先へ踏み込んだ理由は、釘崎が女々しさのないぶっ飛んだキャラだったこと。私の知らぬ間に時代は変化しているのかも。その期待が呪術廻戦を追い続ける導火線だったんだと思う。

だが釘崎をもってしても、私の中のステレオタイプなイメージは拭いきれなかった。アニメ特有の甲高い声でまくしたてるシーンはやっぱりしんどい。男性陣二人と比べれば肉弾戦はどうしたって劣る。渋谷で姿を消したのは、その後の展開では出番がないのが現実か。最期の最後に復活した彼女の術式は、まさにそのためにあったとも言えるのだろうが、渋谷後の苦しい時間を全く共有できなかった穴は大きい。
私にとってのプラスの要因は、三人が最後まで恋愛感情抜きで友情を貫いてくれたことだ。

家入硝子も釘崎同様トリオで登場。一見特異な存在にも見えるが、実は最も典型的な女性キャラだった。学生時代の役割は五条と夏油の緩衝材。最後まで生き残った彼女の役割はナイチンゲール。RPGにおけるヒール魔法の使い手といったところか。ただこちらも恋愛感情一切なしってのは小気味よかった。感情が見えない機械的な感じは私にはむしろプラスだ。

本来単独で取り上げるべきは禪院真希だろう。死滅回遊と新宿決戦に実際に参戦する女性は彼女だけ。真希の場合は双子の真依と共に、男性優位の術師の家系に生まれた女性としての立場も描かれ、呪力を持たないという十字架も背負っている。普通なら飛びつきたい設定なのに、書きたいとは思わなかった。
呪術廻戦において命を落とした術師たちの最後は悲惨だ。姿かたちを読者の心ごとズタズタにする。それがこの作者のやり方と見た。真希は渋谷で生き残りはしたが、その容姿をズタズタにすることで女性としての存在を一度殺したと言ったら言い過ぎだろうか。
再生後は甚爾と並ぶ “鬼人” としての存在へと変わり、私には肉体派の呪術師の一人としてしか捉えられなくなった。

その他の女性たちについては、全般的に置物的な印象が強くて言うべきことがない。
伏黒津美紀はさすがに重要な意味を持つキャラクターだとは思うが、特に思い入れるところもなければクレームもつけようがない。ほぼ寝たきりなので。
星漿体は性別を問わないはずだが、一番ウケがいいだろうあの設定になってしまうかという感じ。
九十九と冥冥もそれぞれ存在感はあるのだが、九十九はあそこまで肉体美を晒す必要があったかな。(断じて妬みではない…と思う)
冥冥はミステリアス感出しすぎて、何がどうしてああなるのかわからないミステリアス魔女代表。でも正直嫌いじゃない。
ちなみに一番嫌いなのは歌姫。女性にするならもう少し落ち着かせてやれなかったかな。

頭のどこかが常にそんなことを考えているらしく、女性はこんな風に女性を描かないだろうとの隠れた思考が、作者=男性との決めつけにつながった。どこで見たかは覚えていないが、”作者は女性という説もある” ことを知り、そう見る人もいるのかと、あわてて作者を指す “彼” という言葉を消した。

男女の性差どころかLGBTQ+という言葉が作り出されるほどジェンダーレスが求められつつある現代。けれど太古の昔から根付いて来た線引きは、そう簡単に消せるものじゃない。自分は違うと思っていても、こんなことをグダグダ書いている時点で、一昔前の思考から抜け出せない化石のようなものだ。それでもいつか女性が男性と肩を並べて闊歩する世界を見てみたいと思う。

物語の筋読みをしてしまう妄想癖のある私。
見た目をぶっ潰されて終わると踏んだ五条は、天元の後釜となり二度と拝めないだろうとか、破壊されたパンダの核となるとか、勝手な予想をして失笑を買っていた。メインを張る四人のうち一人だけ生き残るか一人だけ死ぬかのどちらかだ、という作者の発言を見た時、私の頭に浮かんでいたのは、廃墟となった町を彷徨うボロをまとった一人の術師の姿だった。その顔は見えないが、現代最強とされた術師でないことだけは確かだ。
それから500年ほどの月日が流れ、日本はまるで時間を遡ったかのような荒廃した地となっている。とあるあばら家で一人の赤ん坊が生まれる。その目は青く髪は真っ白。それを藪の中からじっと見つめる怪物のようなものの姿。
私の妄想はそこで終わる。
生まれたのはもちろん女の子だ。

ツダケンに無理やり糸を結ぶ

ツダケンこと津田健次郎さんと出会ったのは、今から4年ほど前の『最愛』というドラマだ。2度目の出会いは2023年4月期の日曜劇場『ラストマン-全盲の捜査官-』で、彼の演技に号泣、この時初めて津田健次郎という名前を認識した。すごい役者さんなのにさほど知られていなところを見ると、小劇場系で活躍する実力派俳優かなんかだろうが、これを足掛かりに絶対に世に出てくるな、などと批評家みたいなことを考えていた。

2023年と言えば、アニメの呪術廻戦第2期が7月から始まり、私が呪術の虜となった年でもある。配信経由で放送に追いついた頃にはすっかりななみんラブだったのだが、ななみん=津田健次郎であることに全く気づいていなかった。声優にまで興味の矛先が向いていなかったせいもある。

エンドロールのキャスト名に目が行くようになり、「七海健人 津田健次郎」を見た時には全身に鳥肌が立った。これは何かの思し召しに違いない。私とななみん(=ツダケン)は赤い糸で結ばれていたのだ!
この勝手な思い込みのおかげで私は今ここにいる。

津田健次郎さんがツダケンと呼ばれる人気声優であることを知ったのは、そのあとのことだ。声優と聞いて驚いたのだが、今ではその枠にとどまらない活躍ぶりである。ここまでブレイクしたのは、呪術廻戦のヒットとななみんの声を担当したことが少なからず影響しているだろう。対談番組にも多数出演されていたが、そこで必ず求められるのは、例のななみん最期のセリフだった。ファンとしてはうれしい限りだが、津田さんにしてみたらどうだったのだろう。

不遇時代を語るインタビューで、アニメ『遊戯王』の海馬の声を担当していたことも語っていた。遊戯王のストーリーは知らないが、テレビで流れていたのを目にした記憶はある。海馬という名前が連呼されていたので耳にも残っていた。驚いたことに、主役の声を担当していたのは俳優の風間俊介さんなのだと。当時まだ売れていなかった彼らが、収録前に喫茶店で時間をつぶしていたなんていう話も聞いた。それが今や二人とも誰もが知る俳優になっているとは。それだけでも感慨深いものがある。
NHKの大河ドラマのオープニングで、二人の名前が続けざまに現れた時には「よくがんばったなぁ」と泣きそうになった。親かよ。

来季のドラマでツダケンは主役の一人を演じるという。とうとう主役かぁ。感慨はさらに深まる。声優、ナレーター、役者、何から何まで、犬の声までやってしまうとは。
この間までNHKで放送されていた『シバのおきて』では柴犬の声を担当していたのだが、これがまた鳥肌もの。死んでしまったツダケン柴が仲間の前に現れて言った言葉がこれ。
「福助…後は頼むな…」
やるなNHK。言い方も間の取り方も完全にななみんだった。実際どれだけの人がこれに気づいたかはわからないが、呪術廻戦がNHKがオマージュするほどのメジャーな作品となったことと、ご本人的には複雑な心境なのかもしれないが、”ツダケンといえばななみん” が世の人に浸透していることが、私としてはとってもうれしかった。

津田健次郎さんとは赤い糸で結ばれているどころか、今にもちぎれそうな赤くもない細糸を無理やり結びに行っただけのことだ。それでも私はツダケンの今後の活躍をお祈りしている。勝手にね。

榊マリコにもわかるまい

文章を書くのは本当に難しい。
頭に浮かんだことを書こうとしても、まず指がついてこない。紙に書くのとは違い今は打ち込むだけでいいが、それでも思考には追いつけないし、考えたことをそのまま文字に起こしたら、支離滅裂な文章にしかならない。

漢字の変換機能は助かるが、こんな漢字を普段使うかとか、ひらがなの方がいいんじゃないかとか、逆に悩むことにもなる。たいていの場合、内容や文章の流れで使う文字や表現を決めている。全体的な雰囲気や読む時のわかりやすさを考えて、漢字かひらがなかを、さらには句読点の打ち方なども変えている。ひとつの投稿内では表現を統一するようにはしているが、投稿によって全然違う文体となることとなり、一貫性のないヤツだと思われるんだろうな。

一貫性がないといえば、キャラクターの呼び方なんかもヒドイ。”五条” “悟” “五条悟”。統一すべきだとは思う。だけどその時の内容や気分によって一番良いのを選んだ結果、そうなるのだ。だいたい人の呼び方なんて日常生活でも一定していない。一人称にしてもそう。みんなそんなもんじゃないのって思うんだけど、違うのかな。

昔よく見ていた「〇〇サスペンス劇場」系のドラマでは、残された遺書や送られてきたメッセージを書いたのが別人だと主人公が見破るシーンがよくあった。普段は「おかあさん」と書くはずなのに「お母さん」と書いているから遺書は偽造されたものだとか、送り仮名の書き方がいつもと違うとか、人の呼び方が違うとかの理由で、別人が偽装した手紙やメールだとわかってしまうのだ。この手のドラマが大好きだったから、当初は感心していたものだが、人生の荒波に揉まれるうちに「そんな単純なことあるかいっ」と、軽くツッコミを入れるぐらいにまで成長した。

「みんな見て、このひらがなの部分。他の投稿では漢字を使っているでしょ。だからこれは誰かがYUJIOKANのふりをして書いたんじゃないかしら」と、榊マリコは言う。※
違うんです。勢いで漢字にしちゃっただけで、書いたの私なんです。紛らわしいことして申し訳ございません。でも、人間ってそんなにきっちりしたもんじゃないでしょ。
なんて、要は自分の力量のなさの言い訳なのだった。

「ちょっと待って、ここの表現も前と違うわ。〇〇への呼びかけ方もバラバラだし。文体が一定してないこの文章は…YUJIOKANよ!これは彼女が書いたものよ!」
そう、マリコにはやっぱりわかってしまうのだ。


※榊マリコ
テレビ朝日系列で放送されている『科捜研の女』シリーズの主人公。事件は必ず解決し、お約束の掛け合いで終わるこのドラマは、私にとっては水戸黄門的な存在で、心の癒しともなってきました。1999年の放送開始から四半世紀が経ち、打ち切りも噂される昨今ですが、ほっと一息つける時間を届けてくれた科捜研に、辺境の地からではありますが、心より感謝の意を表します。
2025/12/13 Yujiokan

聖地TOKYO

呪術廻戦のタイムラインを考えるにあたり、身に染みて思うことがひとつある。それは物語の舞台への土地勘のなさだ。作品中では作者ゆかりの東北の都市が舞台となることも多いが、さすがにそこら辺が不案内なのは仕方がないとあきらめもつく。しかし、舞台の大部分を占める東京についてならどうだ。

渋谷に現れた半径400メートルの帳と言われても、その場所を知らない私にはまったくイメージがつかめない。渋谷駅構内、悠仁がななみんに向かって叫んだビル、五条と宿儺が戦った場所、日車のいた劇場などなど、数え上げればキリがない多くのスポットが、実在していると聞く。海外での認知度が高く有名どころも多い日本の首都だけに、それらがすぐにピンとくる人も多いはずだ。それらを知っていれば、各場面の距離感や時間の推移が現実のものとして把握でき、ストーリーの理解も深まるだろう。何より、呪術廻戦をより楽しめたんじゃないだろうか。

たとえばもし、舞台が私の生活圏だったとしたら。毎日の通勤に使う駅から悠仁が走ったと思しき跡をたどってみたり、あのファミレスは多分ここだよな、なんてことを考えたりするだけで心がワクワクするだろう。
そんな気持ちを味わうために、人は聖地巡礼をするのだろうか。ゆかりの地を訪れ、そこにいたはずの登場人物たちに想いを馳せる。それは、古い街並みでかつてそこに暮らしていた人たちを想ったり、カフェに座り窓の向こうを通り過ぎる人たちの生活を勝手に想像したりする私の妄想トリップにも少し似ている気がする。そんな時間は、自分にとって限りなく貴重で幸せな時間なのだ。

もし私が東京圏に住んでいたら、休みのたびごとに、物語に登場したと思しきスポットをひとつひとつ巡ることもできたんじゃないか。それだけじゃない。関連イベントなどの開催も東京のみか、地方に来ても数か月どころか年単位でタイムラグが生ずる。東京圏にいることは、それだけで優位性があるのだ。移動にかかる時間もお金も、地方よりずっとずっと少なくて済むだろう。
そういえば私は未だに東北にも行ったことがないのだった。喜久福も食べたことない。どうせなら仙台に行って喜久福食べたいな。東京圏からなら東北もそこまで遠くはないはず。少なくともここからよりは。

昔と比べれば、今の日本はどこへ行くにも楽に短時間で移動ができる。東京都心に住んでいなくとも、近郊の町や県から東京へのアクセスは格段に良いはずだし、遠くの府県からも日帰りできるぐらいの交通網も整備されている。だけど現実には、誰もが気軽に飛んで歩けるわけでもない。必要なのは時間と金と情熱、そして行動を起こすエネルギーか。今の私にあるのは情熱だけだ。

テレビの全国ニュースで取り上げるのは東京近郊の話題が中心。今や日本の人口の約3割が東京圏に住んでいるというから※、それも仕方のないことなんだろう。もう30年以上も東京に足を踏み入れていない私にとって、そこはもはや別の世界。私には関係のない、行くべき理由もない場所だった。だけど今何が一番悔しいって、東京圏に暮らす3割の中に自分が入っていないことだ。


※注)
令和2年の国勢調査によります。先ごろ令和7年度の調査があったばかりですが、東京圏に暮らす人の割合は増加しているのではないでしょうか。

まさみち、何でだ


呪術高専東京校学長、夜蛾正道を “まさみち” と呼んでいる。まさみちはコワモテだ。格闘技には全く興味がないが、その顔には見覚えがあった。年末に月亭方正を引っ叩く人。何で高専の先生なのかはわからないけど、コワモテがぬいぐるみをチクチク縫っているのが愛らしくて大好きだった。

顔に似合わず優しい。生徒や仲間のことを陰からそっと助けてくれる頼れる学長だ。その彼が突然命を絶たれた。あまりにも予想外で、あまりにもあっけなく。彼はなぜあんな所であんな風に消されなければならなかったのだろう。

私の悲しみに追い打ちをかけたのは、まわりの反応の薄さだ。パンダが涙を流したこと以外、彼の死を悼む声は聞こえてこなかった。仕方ない。あの五条悟の時でさえそうだったのだから。唯一の救いは、ななみんが悠仁の心にずっと住み続けていたことだけだ。

現実的には、まさみちの役目はもうおしまいってことなんだろう。それでも許せないのは、この期に及んで楽厳寺を上層部の考えに同調させてしまったことだ。この時点で私の爺さんへの期待は一切なくなった。結局まさみちを手にかけたのは、他でもないその爺さんなのだから。

箱から出た五条が後を託した形になったのも、まさみちが黙って死を受け入れたのも、アンタに呪いをかけたからなんだよ、ジジイ。ついたての向こうの奴らを手にかけた五条の意思を、アンタはちゃんと引き継げるのかい?

齢76歳のあの爺さんに、新しい呪術界を先導していくことは期待しない。そもそも作者自身の思惑がそこにはなかったのかも知れないし。それでも、私はまさみちに生きていて欲しかった。生き延びて後に続く若い術師たちを育て、守ってやって欲しかった。だから私はその希望を篤也に託したのだ。どうか遠くから力を貸してやって欲しい。

日下部篤也に八つ当たる


クサカベさあ、あんなに強くて優しかったんなら、もうちょい早くそれ出しといてもらえんかったかな。

渋谷事変の時なんて、最初っから本気出してくれてたら状況変わってたかも知れへんやん。ななみんだって死なずに済んだかも知れんし、悟だってさ。わかってる。わかってるわ、そんなん関係ないって。けどさ、あるじゃん、バタフライエフェクトとかいうやつ。風が吹けば桶屋が儲かるみたいな。何がどう影響するかわからんやろ。

笑ったさ。アンタが純真なパンダだまくらかして渋谷地下でウロウロしてたの見て。アニメの本領発揮ってとこよね。完全にツボをつかれたわ。けどさ、どんな事情があるにせよ、やっぱアカンよ。高専生もみんなボロボロになってがんばってたのに。アンタ、一応先生やろ?
最後の最後に別格の片りんは見せてくれたけど、「帰りてえ」とか言ってんじゃねぇよ。

泣いたさ。アンタの抱えてた事情を知った時には。それでも私は「だったら仕方ないね」とは言えないよ。あの時にはわかってなかったけど、今は知ってるから。アンタが一二を争う1級術師だってことを。

新宿決戦からは、その名に恥じない活躍だったね。まわりの誰もが、一番強い1級術師だって評価してることも初めて明かされたし、遅れて来たスターって感じだったよ。ただ、薄々気づいてるだろうけど、これについてはアンタ完全に当て馬だよね。見たことも聞いたこともない術師を印象付けるための。アンタが気にしてなきゃ別にいいけどさ。

宿儺と対峙した時のアンタはお世辞抜きでかっこよかったもん。あの後『呪術廻戦展』ってのに行ってきたんだけど、剣構えたアンタの原画、スタッフのお兄ちゃんに「あのポスター売ってないですか?」って詰め寄りたくなるほどかっこよかったよ。そうそう、これの元になったやつね。↓

ウエハースにランダムでついてくるシール。2つも引き当ててやったぜ。後で気づいたんだけど、これってコミックス13巻の表紙やったんや。まあ、今さらどうでもいっか。

とにかく最後の最後にはシン・陰流当主っていう肩書までついたし、これでがんばらなきゃウソだよね。

新宿決戦の後、まさみち(夜蛾正道)がいなくなった今、大切な妹さんや “甥っ子”くんがどうなったかは知らない。けど、まさみちに恩を感じているなら、五体不満足だらけの生徒たちが残っているなら、やるっきゃないよね。察するに、残っている高専の先生がいるとしても、術師として使いものになる人、いないんじゃない? じゃなきゃ日本の運命がかかっていた渋谷や新宿に姿を見せないなんてあり得ないもん。

私はアンタがこれからの高専を引っ張っていく人だと思ってるよ。まさみちの後を引き継ぐの、アンタしかいないじゃん。

期待してるよ、日下部先生

空港にて


年とともに音楽から遠ざかっていたが、呪術廻戦と出会って3ヶ月ほど経った頃には、YouTubeで呪術の曲をヘビロテで聴くようになっていた。問題は音楽だけじゃなく、いわゆるネタバレサイトも数多く上がって来るようになったこと。コミックスに何とか追いついた2023年12月頃、少し前からそこは五条悟の死と復活の可能性ネタでお祭り状態だった。絶対に見るまいと思っていても、否が応でも視界に入る衝撃的な見出し。血を流す五条の死に顔をトップに据えるなんてことがあり得るのか。

そんな中、妙に違和感のある “空港” という言葉がやけに目についた。こんな時に空港って何だ。こらえきれずサイトのいくつかをチラッと覗いてしまった。どうやらその “空港” とやらで五条が今後の行き先を選択するらしい。北は全く新しい自分、南は過去の自分。とにかく私はこんな風に理解してしまった。地獄はここから。

続く25巻で再び悟を拝めたのに、それがいつまでも続かないのを知っている辛さ。何とか戻って来てもらわなければ。得意の妄想が暴走する。

硝子の反転術式でも復活はムリっぽい
   ↓
全く別の形で戻るしかない
   ↓
あの作者のことだから、読者の心を完全に打ちのめすような姿だよな
   ↓
呪霊とか、呪骸とか?
   ↓
パンダだ! 失われた核のひとつとなるのだ(どうやってかは知らんけど)

この妄想地獄で私はある決意をした。
“空港” に着いたら自分自身の目で五条の行き先を見極めてみせると。

そして待ちに待ったコミックス26巻。表題などには目もくれず、あの残酷な場面に備えつつ、震える指でひたすらページをめくる。
「空港?」
突然予想外の世界が広がった。一瞬ページを飛ばしてしまったか、落丁なのかと思った。何でいきなり空港なんだ。しかも想像していたのと全然違う。”飛んで行った飛行機は北の方角…” って、飛んで行く飛行機なんてどこにもない。私は何を、どんなヒントを探せばよいのか。まるでキツネにつままれたようだった。身構えていた場面はその直後にやって来た。オワタ…

ネタバレサイトなんて絶対見るものじゃない。少なくとも私のようなど素人が手を出す領域ではない。必ずしも真実だとは限らない情報を先に頭に入れることは、本来味わえたはずの感動や驚きを得る機会を失ってしまうということ。妙なバイアスがかかり、本来見えるはずのものが見えなくなる可能性があることをきちんと理解しておくべきだ。

それから何度も26巻を読み返し、その内容を反芻し、ある日突然目が覚めた。
「みんな制服だよな」
考えてみれば、あそこでの会話には生前の五条が知り得ない事実も含まれていた。『これが僕の妄想じゃないことを祈るよ』と彼は言ったが、確かにあれは妄想なんかじゃなかった。私はようやく気がついた。五条悟はあそこから飛び立つのではなく、あの空港に降り立ったのだと。あらためて26巻を手に取り、ゆっくりと、心静かにページを繰る。答えは最初からそこにあった。

236話 南へ

このエピソードタイトルは、五条悟が表紙となっている26巻の表題ともなっていた。ネタバレなんて本当に見るもんじゃない。そしてタイトルはちゃんと見るべきだ。

さて、自分だったらどの方向を選ぶだろう。北に行く場合、今の記憶を持ったままなのだろうか。だったら少しはまともに生きられそうだが、オオアリクイとかサバとかムラサキウニとか、人間じゃないものになるのはゴメンだ。なら南かと言えば、私の人生で戻りたいと思えるような場所がどこかにあっただろうか。楽しそうに笑う悟たちの姿を見て、泣いていいのか笑っていいのかわからなくなる、そんな “空港” だ。