乙骨ぎらい


乙骨が好きになれない。
理由の一部はひとつ前の投稿にあるが、実はそれだけじゃない。呪術廻戦0の乙骨は決して嫌いなキャラではなかった。だが、長い沈黙の後に復活した彼は、あまりに別人だったのだ。

上層部側についたかのように見せかける、バレバレだが否が応でも期待を煽る登場の仕方。強いってことは一目瞭然だけど、落ち窪んだ目と表情、怖すぎるやん。死神かと思ったぜ。

さらに問題なのはその内面。ミゲルと行動を共にして、陽気なアフリカン気質が多少は移ったのかと思いきや、むしろその逆。ひょっとしたら想像を絶する修行でもして、最強になった自分を自覚したのであろうか。弱々しさや謙虚さのようなものが一切消えており、伝わってくるのは最強としての自信だけだ。虎杖との一騎打ちになった時、私にはそれが “上から目線” としか捉えられず、カチンときてしまったのだ。

「虎杖悠仁は僕が殺します」と上層部に言い切った時、虎杖をいったん殺すという策は頭の中に出来上がっていたんだろうが、これって自分が負ける可能性を全く考えていないよね。戦闘中も「走り出しで潰すつもりだった」「五条先生の教え子だもん 一筋縄じゃいかないか」と来る。余裕だね。アナタハカミデスカ?と言いたくもなるよ。

この感情、前にも感じたことがあると思ったら、五条悟だ。稽古を頼んだ伏黒に言った「それじゃ僕どころか七海にもなれないよ」にカチンときた覚えがある。ななみんを見下しすぎだと腹が立ったが、五条が見かけどおりの傲慢で自分勝手な男でないことを私は知っている。物語の始まりから獄門疆に閉じ込められるまでの期間、ずっと彼を見てきたから。単行本にして10冊ちょっとの重みとでも言おうか。一方で、私の知る乙骨は0の中の彼だけだ。しかも戻ってきたらまるで別人。過ごした時間があまりにも短いうえ、どこか機械的なものさえ感じてしまう乙骨は、私にとって不穏な、感情移入不能なキャラクターなのだ。

好きになれない理由はもうひとつ。こっちの方が重大。それは里香ちゃんを再び引きずり出したことだ。「はあ?!」「何で?!」「ウソやろ?!!!」32回は声に出して叫んだわ。いやいやいや、あり得へんやろ。どんな神経しとるんや。可愛らしい元の姿に戻って、ようやく天へと旅立つことができたんだぞ。何でまた怪物姿で引き戻すかな。

“外付け” とか説明されてもよくわからん。旧里香ちゃんも、乙骨の怨念があのような形で彼女の魂を引き留めたもので、生まれ持つ能力の高さと桁外れの呪力量の結果だ、ぐらいの認識だった。里香ちゃんがいなくなっても外付けとかできるんだったら、全く別物でもいいんじゃないのかい。百万歩譲ってあの形態しかなかったとしても、名前ぐらいは変えようよ。乙骨はあの姿の里香でも愛せるらしいし、当の本人も気にしてないとは言っていたが、女の子ってやっぱり可愛くいたいものよ。「もういい加減やめて」って言ってるよ、上にいる里香ちゃんは。たぶん。知らんけど。

私だったら “わたるくん” って呼ぶな。あ、無関係な人名とか今時コンプラ的にヤバいか。だったら大魔神とか玉梓とか鉄人2号とか、この際何でもいいや、里香以外なら。※
外付けの件については、おそらく私がわかっていないだけなんだろう。根っからの文系頭にもわかるような説明を誰かしてくれないかな。多分納得はしないだろうけど。

「乙骨が嫌いなヤツなんて見たことも聞いたこともねぇわ」って言われたことがある。

ごめん。若干1名ここにいます。

※脚注
わたるくん:私のような年代の者にとって、リカちゃんと言えばリカちゃん人形のこと。リカちゃんのボーイフレンドがわたるくんでした。その後リカちゃんは彼氏を取っ替えていたらしく、わたるくんを含めて歴代6人のボーイフレンドがいるのだそう。やるな、リカちゃん。
玉梓(たまずさ):その昔、NHKで放送されていた人形劇『新八犬伝』のキャラクター。怨霊。登場するときのフレーズ「我こそは玉梓がおぉんりょ~う」は今も忘れられない。
鉄人28号:ご存じ(?)横山光輝のマンガに登場するロボット。私が見ていたのはアニメ版。操縦用のリモコンをブロックで作っていた記憶があります。懐かしいです。
以上、昔話シリーズからお届けしました。

好きと言える幸せ

頭痛持ちだ。
学生時代は勉強のしすぎだとか(ない)目が悪くなったからだとか姿勢が悪いからだとかいろいろ言われたけど、最終的には頭痛薬に頼るしかなかった。

低気圧が頭痛の原因の一つだとされるようになったのは、ここ数年のことだろうか。言われてみれば思い当たる節がいっぱいある。頭が痛くなるのは雨が降る前日が多い。かと言ってすべての雨に当てはまるわけでもないが、雨好きの私としては認めたくはないところではある。

最近は夜中に何度も目が覚める。年のせいだと言ってしまえばそれまでだが、1時間ごととなるとさすがに病的なものじゃないかと疑う。翌日は極度の寝不足で、当然頭痛薬のお世話になる。

一昨日もそうだった。最近薬を飲む頻度が増しており、できるだけ我慢するようにしていても、昨日はとても無理だった。薬を握りしめて水を飲みに行く。
「頭痛くて我慢できへん」
そう愚痴ると、頷く仲間の多いこと。
「やっぱりね」
「私もさっき薬飲んだ」
「頭痛すぎて手がしびれてきたわ」

そうか。夜中に異常なくらい目が覚めるのは、いわゆる”気象病”のせいなのかもしれない。原因と思われるものがわかって嬉しいやら悲しいやら。でも、実は仕事場で頭痛薬を飲む時に、思わず頬がゆるんでしまう密かな楽しみがあるのだ。それは薬を持ち歩いている缶にある。私の呪術廻戦好きを知った仕事仲間がくれたもので、一瞬「これ悟か?」と思ったのだが、今では頭痛薬を飲む時の癒しにもなっている。

呪術廻戦にハマってから約2年という短期間に、自分でも驚くほどの関連グッズを集めた。基本的に原画を使っていることにこだわっている。アニメやそれ以外の物もあるにはあるが、私なりの美的基準みたいものがあり、それに従って集めてきた。

だけどね、私の呪術好きが広まるに連れ、いろんな人がいろんなものを持ってきてくれるようになったの。出かけるたびにガチャ回して、見たこともないようなグッズをくれる人もいる。私のななみんファイルを見て「私も好き!」から会話が弾み、これまたいろんな呪術グッズを手渡してくれた人もいた。他にもいろんな人からたくさんの物を頂いた。その多くは私の美的基準からは外れたもの、中には「マジどちら様ですか?」ってのもあるんだけど、うれしいの。好きだってこと知っただけで、あまり話したことない人まで、わざわざ持ってきてくれるなんてことあるんだって。世の中まだ捨てたもんじゃないって思えた。

マンガ好きとかアニメ好きとか大っぴらに言えない時があった。今は「呪術廻戦が好きなのよ」って大きな声で言える。そうして集まった物に囲まれ、小さな幸せを噛みしめながら毎日を生きている。

呪術廻戦の主人公

はじめに…
今、2025年10月25日です。
昨日久しぶりに音楽でも聴こうと思ってYouTubeを開き、思いっきり後悔しました。呪術と私の心が日に日に乖離していく感覚はもはや止められませんが、投稿は続けます。それではいつものようにここから。


呪術廻戦の主人公は虎杖悠仁です。

そのはずなんだけど、ずっとモヤモヤしてるんだ。

何の知識もなくアニメに途中参戦した当初から、何て華のない主人公なんだろうって思ってた。そもそも全然タイプじゃない。髪はピンクで赤いフードの制服。何じゃこりゃ?
私自身が根暗で考え込みやすい性格なので、根明で思ったことを素直に言える悠仁みたいなタイプは敬遠してきた。でもそれは羨ましさの裏返しでもあったんだよね。

個人的な好き嫌いは置いといて、人間離れした身体能力(かなり離れすぎだけど)を持っている以外、虎杖悠仁はごくごく平凡な高校生だった。勉強ができるわけでもなく恵まれた環境で育ったわけでもない。こういう場合、物語が進むにつれ主人公が成長し強くなっていくもんだと勝手に決め込んでいた。

ところがどうだ。いくら待っても彼はさほど強くもならず、まわりはそれぞれの術式を駆使、領域展開までする者もいる中、ほぼ拳一つで戦っている。地獄への入り口渋谷事変に至っては、地べたを這いずり、すべては自分のせいだと自らを責めるばかり。ちょっと待て。あんたが一体どんな悪さをしたっていうのさ。私のDNAに組み込まれた判官びいきが一気に炸裂した。この時からさ、私が悠仁のオカンになったのは。

放り出しそうになりながらも執念でストーリーにしがみつく。そこに突如降臨したのが乙骨憂太だ。

彼のことはもちろん知っていた。コミックス0も読んだし、映画もリアルタイムでこそ間に合わなかったものの、配信で後追いした。現在の0が別名で先に世に出ていたことも知っている。だけどさ、本誌での連載が決まった時、最終的に虎杖悠仁を主人公として選んだわけでしょ。なのに何故ここにきて急に二人を並べ立て始めたのか。「虎杖&乙骨の新旧主人公シール!」ってのを本誌で見かけた時には愕然としたわ。呪術廻戦の主人公はいつの間に二人になったんだ?

そうだよね。実際、渋谷事変以降は乙骨が主人公と言っても過言じゃない。新旧で言うならむしろ虎杖がで乙骨がかつメインだ。0からいきなり復活し、鮮やかに、見事なまでにすべてをかっさらって行った。その一方、悠仁の影の薄いこと。最終的には宿儺を倒したってことにはなるんだろうが、あれって悠仁一人の力でもないし、正直なところ何がどうなったんだかよくわかんないんだよね。

結局悠仁は何をしたんだ?
強くはなったのか?
それとも彼はただの狂言回しだったってことなの?

いや。そんなことあってたまるか。
最強になろうなんて高望みはしない。華なんてなくてもいい。泥臭くてもいい。どんな形であれ呪術廻戦をここまで引っ張ってきたのは虎杖悠仁なんだもの。ちっぽけな歯車の一つに過ぎなかったかも知れないけど、人を救うため、仲間のため、真っ正直にただひたすらに戦う。そんな主人公がいてもいいいよね。

五条悟の跡なんて引き継ぐ必要もない。そもそもそんな柄じゃない。虎杖悠仁はきっとあの後も、一介の呪術師として、地に足つけて体張ってがんばったんだと思うよ。案外呪術高専の先生とかも合ってたかもね。どんな生き方をしたにせよ、最後はたくさんの仲間に囲まれて、悟やななみんやジイちゃんたちのところへ笑って旅だったんだと信じてる。そしてオカンはそんなあなたを誇りに思います。だから最後にもう一回だけ言わせて。

呪術廻戦の主人公は虎杖悠仁です。

あー、オカンちょっとだけスッキリしたわ。ありがとね、悠仁。

CMがくれたもの

BS日テレで放送されている『小さな村の物語 イタリア』という番組が大好きで、初期の頃からずっと見ている。今日はそこで流れるCMを見て喚起された想いを書こうと思う。

テレビ番組の合間に流れるCMなんて普段は気にも留めないどころか、むしろ話の腰を折る迷惑千万な代物だ。でも、時に思わぬ掘り出し物~セレンディピティと言うのか~に出くわすこともある。今までにいくつもの出会いがあったが、その中でも特に心に残っているCMが三つあり、そのうちの二つが前述の『小さな村の物語』で流れていた作品なのだ。

一つ目はこの投稿をするきっかけとなったもの。実は昨日の放送中に流れたCMだ。大和ハウスの「家族の群像」シリーズ。その第一作が私のお気に入りだ。父が教授を務める大学を息子の小学生が訪ねるという内容なのだが、なんとも言えないノスタルジックな雰囲気と二人の置かれた状況と関係性がCMの中でやんわりと表現されているのが秀逸で、まさにひとめぼれだった。父親役の村上淳さんには、ちょっとヤバい役が多いバイプレーヤーという印象があったが、この役のあまりのハマり具合にキャストを選んだ誰だかわからない人に密かに拍手を送ったものだ。このCMは今も時々流れているので昨日も当然それだろうと思っていた。ところが途中で声のトーンが変わったかと思うと、なんと子役が大きくなっており、村上淳さんもちょっとばかり年をとっているではないか。調べたところ、最初の設定から4年後を描いた新バージョンらしい。さすがに一作目ほどの感動はなかったが、こんな風に続編が作られるってことは、この作品が好きだった人が他にもいっぱいいるのかも知れないと思うと、ちょっとうれしかった

二つ目も『小さな村』で出会った東芝LEDのCM。一つの家族の変遷を影絵のように表現したもので、初めて見た時、不覚にも涙してしまった。企業的にはLEDはこんなに長持ちするんだとアピールしたかったんだと思うが、そんなこと頭から飛んでしまうほど心に迫るものがあった。何故か突然BGMが静かなインストゥルメンタルから歌詞付きのハッピーな感じに変わってしまったが、私は断然インストゥルメンタルの方が好きだ。

三つ目は私の中で一番心に残っている作品だ。明治安田生命の「あなたに会えて」シリーズの『たったひとつのたからもの』篇。小田和正の名曲「言葉にできない」に乗せて、とある家族の写真が流れる。子供の名前は今でも覚えている。秋冬君。生後一か月でダウン症と診断された彼とその家族の6年間の記録だ。テレビCMを見て嗚咽を上げるほど泣いたのは、後にも先にもこのCMだけだ。最後に流れるお父さんが秋冬君を抱きしめる写真は、父から息子への愛をどんな言葉よりも重く深く物語る。
これを書くにあたりネットで検索をしてみた。あった。今でも見ることができた。放映されたのは2001年。25年近く前の作品だった。それが色あせることなく今も私の胸に突き刺さっている。キーボードは今、水浸しだ。

Satoru is everything



五条悟が誕生した時点で呪術廻戦の勝ちは決まっていた

なんてね。まあ要するに、五条悟というキャラクターが生み出された時点で、呪術廻戦の成功は決まったと思うんだ。もう何年もマンガやアニメを見てないから単純に比較はできないんだけど、今まで目にしてきた中で彼ほど特異で魅力的なキャラクターはいない。何と言っても、とにかくかっこいい。

五条悟なんて聞いたこともなかったのに、USJで見かけた5000円近くする彼のポップコーンケースを思わず買っちゃいそうになるほどかっこいい。包帯で素顔も見えないのに、恐るべきオーラだ。

だけどその魅力は外見だけじゃない。
性格悪いとか軽薄だとか言われてるけど、ホントにそうなのか。むしろ人として一番まともなキャラだったんじゃないかって私は思ってる。

生まれた時から別格だったわけだし、そりゃ多少はおかしくもなるわな。けど懐玉・玉折で描かれた学生時代は、呪術師であること以外私らと何ら変わりない。時に悪ふざけもする、ごく普通の眩しい青春だ。あのルックスだからモテはしただろうけど、遊んでいるようにも見えない。本気で女性と向き合ったことなんてないんじゃないかな。男女を問わず本音をさらけ出せた可能性のある相手は、結局夏油だけだったんだろう。

ちゃらんぽらんはあくまで表面上のこと。すべてを見据えて行動する賢さが見え隠れする。恵の能力を見極めたうえで、喜久福買ってドンピシャなタイミングで助けに現れる。外見上のかっこよさとちゃらんぽらんさ、内面の優しさと淋しさ、賢さと危うさ、それらが絶妙に入り混じってできた五条悟は、やはり唯一無二の史上最高のキャラクターだ。

Satoru is everything.
呪術廻戦は五条悟がすべて
(英語の使い方合ってる?)
彼の代わりは他の誰にも務まらない。

五条の死にざまは記憶がぶっ飛ぶほど衝撃的だった。悲惨すぎて涙も出やしない。あそこまでやられると、もはや清々しいぐらいだ。😭←泣いてるやん
ストーリーの先読みはことごとく外していたが、悟はロクな終わり方をしないという予想だけは当たったことになる。考えていたのとは全く違った形だったけどね。彼が復活することを最後まで期待してたけど、そうはならなかった。

いいよ。あそこまでやられたら諦めもつくってもんだ。いなくなっても残されたみんなを、呪術廻戦を導いてくれてありがとう。本当にありがとう。

だけどさ、今更だけどさ、みんな最後にもう少し彼のことを思い出してくれても良かったんじゃない?

雨の日

私はいわゆる晴れ女ではない。かと言って雨女というわけでもなかった。遠足や運動会など学校の大きな行事で思い出すのは、晴れでも雨でもない、今にも雨が降り出しそうなどんよりした曇り空ばかり。

雨は好き。
シトシトと降る雨の中をゆっくりと歩く。雨の匂いを感じながら。雨に煙った街は普段とは違う別世界。この世界を家の中や洒落たカフェから眺めるのが私の至福の時だ。目の前を急ぎ足で横切るスーツ姿の人々、ずぶ濡れではしゃぎまわる子供たち、スーパーの袋をいくつもかかえた女性が足早に通り過ぎて行く。まるで映画の一場面を見ているように眺める。それぞれの生活を想像してみたりしながら。そんな時間は穏やかで心温まる、それでいてなんとなく淋しくもあるひとときだ。

台風や土砂降りの雨は問題外だが、同じ雨でも自分が学校や仕事に行くとなると話は別。職場まで自転車、電車を乗り継ぎ最後は徒歩で通う私にとって、雨はむしろ天敵だ。横殴りの雨の中、自転車をかっ飛ばす私の罵詈雑言は決してここで書けるようなものではない。曇り女であったはずの私は、いつの間にか立派な雨女になってしまったらしい。さっきまで降っていなかったはずの雨が、私が一歩踏み出した瞬間に落ちてくるのだ。開き直った私は「雨は私のおともだちだから喜んでるわけよ」と意味の分からない自慢をしているのだが、そんな時の雨はなんとも恨めしいおともだちだ。

現実的には晴れ女や晴れ男、雨女や雨男というのは当人やまわりの思い込みだと聞いたことがある。そりゃそうでしょ。実際にそんな人たちが存在するならば、オリンピックの開会式に晴れ人間をいっぱい並べとけばいいんだから。

曇り空の週末、一週間分の買い出しに出かけ土砂降りの雨の中戻ってきた。日々の生活に追われながら、わずかの時間を見つけサイト作りに取り組む。年を経るごとに背負うものが減り自由になれると信じていたが、その分、別の重荷が増えていくものらしい。いつの日か何の迷いも憂いもなく、雨の街をずっと眺めていられる日々が訪れることを夢見ている。

マンガかアニメか

アニメという言葉を一つのジャンルとして意識しはじめたのは『機動戦士ガンダム』(もちろん初代)が放映されていた頃。映画化もされ、ニュース番組などにも取り上げられるくらいちょっとしたブームになっていた。マンガに関しては『小学1年生』にはじまり『なかよし』『リボン』『少女フレンド』などなどを友達同士で回し読みするごく普通の少女時代を過ごしてきたが、中学後半になるとマンガをほとんど読まなくなっていた。テレビで見るのは歌番組かドラマ。『ドラえもん』や『サザエさん』にアニメという特別な認識はなく、家族で見るテレビ番組もしくは子供向けの娯楽番組としか思っていなかった。

そこに現れたのがガンダムである。私は一気に虜になった。自分のオタク気質を自覚したのもこの時で、突如スポットが当たりはじめた声優という職業に憧れを抱いたものだ。腐女子なんて言葉が出現したのも多分この頃。自分自身についてほぼ自虐的に使いつつも、ほんの少しだけ嬉しい気持ちもあった。当時は「アニメが好き」「マンガが好き」と大っぴらには言えない雰囲気があった。

時は流れ、今やマンガやアニメは日本の代名詞とも言うべきコンテンツ文化となった。好きを公言しても、かつてほど引かれることもなくなった。押し活の対象はアイドルや俳優のみならずマンガやアニメのキャラクターにまで及んでいる。私はその波に一切のまれることなく過ごしてきた。世界がコロナ禍に見舞われる2020年はじめ頃までは。

コロナ禍が世界を襲う少し前、「鬼滅の刃の伝道師」を自称する若い同僚が職場にコミックスを持ち込み、その回し読みルートの中に私もすっぽり収まった。世間では鬼滅の刃大フィーバーが起きており、老いも若きも鬼滅、鬼滅。炭治郎の羽織柄マスクをした子供たちがそこら中を徘徊しているのを見れば、否が応でも興味が湧く。老眼という難敵と闘いながら何十年ぶりかで読むマンガ。決して面白くなかったわけではない。けれど世間がここまで騒ぐほどの魅力を感じることはできなかった。配信でアニメ版を見た同僚が「マンガよりわかりやすいし面白い」と勧めてくれた時も一向に食指が動かなかった。私の中のアニメは何十年か前で止まったままだった。今思えば、それが私の現在地を決めるきっかけとなったのかもしれない。

深夜に放映していた呪術廻戦を見かけた時、かつてのアニメとは全く違うことに驚いた。画質の粗さや絵の乱れ、同じシーンの使いまわしといった印象しかなかった認識が見事に覆された。配信されていたアニメ版を一気見し、続けざまにコミックスを読破して更に驚いたのは、マンガの内容がそのままアニメになっていることだった。セリフまで変えられることなく使われている! マンガをアニメ化する場合、ストーリー自体が改変されるのはおろか、キャラが追加されたりデフォルメされたりするのが当たり前だと思っていた私には衝撃だった。とはいえ、どう近づけてもマンガとアニメは違う。マンガを読む時、私は小説を読むのと同様に登場人物の声を頭の中で作り上げ、描かれていない部分を想像力で補っている。自分で作り上げたイメージが壊れることが嫌で、アニメ化や実写化には反対の立場だった。だが呪術廻戦との出会いが、この考えを根底から覆した。マンガを読む私の頭の中では、声優中村悠一のイケボイスで話す超がつくほどカッコいい五条が勝手に動き回っていた。もし先に出会っていたのがマンガの呪術廻戦であったら、こんな風にブログを書いている私は存在しただろうか。正直なところ「もちろん!」と答える自信はない。

どんな形で作品に出合うか、小説なのかマンガなのかアニメなのか、はたまた実写化されたドラマでなのかで印象はがらりと変わる。それぞれを比較しながら楽しむ人もいれば、マンガ派アニメ派と呼ばれるように一つのメディアだけに絞る人もいる。同じメディアではあっても描かれ方一つで好きから嫌いになったりもする。そんな微妙なバランスの中で私たちは生きている。

時は2025年10月。映画版第二弾の鬼滅が世界を席巻している今、呪術廻戦も大きく動こうとしている。目や耳をふさいでいても情報が飛び込んでくるこの時代に、アニメ派の呪術ファンたちが今後の展開を全く知らないなんてことがあるのかどうかは知らないが、アニメ『死滅回遊編』を見て彼らは何を思い、どう行動するのだろう。

なぜ乙骨は当主代理なのか


正確に言えば【なぜ乙骨は五条家当主代理なのか】である。
答えは簡単、新宿決戦後の五条家には跡を継げる人間がいなかったから。
物語が始まった時点では五条悟が五条家の当主であり、まさに唯我独尊状態であった。その彼がいなくなったとなれば一体誰が跡を引き継げるのか。生きているとされる彼の両親は年齢的に除外するとして、血族を遡れるだけ遡ったとしても呪術師として五条家を率いることができる人物が見当たらなかったと推測できる。だからこそ、五条家とは遠い遠い親戚とされる乙骨憂太が選ばれたのだろう。しかも彼は五条悟を凌駕するほどの呪術師なのだから。

いや違う違う。
ここで問題にしているのは、なぜ当主ではなく当主代理なのかだ。
これまた答えは簡単、正当な五条家当主となりうる人物が現れる可能性があるから。その可能性には大きく分けて2つの道筋がある。
1.生き残っている親族の子孫から
2.五条悟の子孫から(【五条悟は子孫を残したか?】参照)

エピローグ パンダを読んだ瞬間、乙骨憂太は五条悟の子孫を待っているんだなと直感した。その可能性があるからこそ当主代理を引き受けたのだ。「わかりました。五条先生の跡を継げる術師が現れるまで、あくまで当主代理として僕が五条家を守ります」的なこと、いかにも言いそうだし。その人物が現れるのは恐らく数百年後になるであろうが。

新宿決戦から500年の時が流れたある日、六眼を持った白髪の子供が五条家にやって来る。(妄想暴走中)
代々当主代理を務める乙骨家は大混乱に。六眼のことなど言い伝えでしか聞いたことがない。「確か忌庫に初代当主代理の残した巻物があったはず…」
埃まみれで虫食いだらけの巻物にはこうあった。

新たなる呪術廻戦の幕開けだ。


誰か私を止めてくれ~!

五条悟は子孫を残したか?


呪術廻戦について共に語る仲間もいない、YouTubeや検索サイトで目にする動画やブログをチラ見する程度の知識しかない私にとって、この疑問=家入硝子は悟の子を身ごもっていたか?であり、その答えは自明の理だと考えている。これがファンの間で共通認識なのか、それともまったく見当はずれの個人的妄想なのか、作者自身がどう考えていたのか、知りたいのはやまやまなのだが、他人の見解に振り回され心がかき乱されるのが嫌なばかりに、今日まで自分自身で作り上げた呪術の世界に閉じこもってきた。

家入硝子は相当ドライな女である。いや、ドライというよりむしろサイコパスに近いものさえ感じる。もちろんこれは飛躍のし過ぎだとわかってはいるが、共に学んだ夏油傑や五条悟の亡骸を平然と(あくまで表面的には)処理する様子などを見るにつけ、彼女には感情や心というものが欠けているのではないかと思ってしまうのだ。もし五条に「まさかの時のため子孫を残すのに手を貸してくれないか」的なことを言われたら、「ま、いっけどさ」とタバコ加えながら答える姿が私には容易に想像できる。宿儺との最終決戦の前に五条がやっておきたかったことの一つがこれであっても不思議ではないし。まさに一発勝負ではあるがww

家入が身ごもっていたと考える根拠は、新宿決戦後、彼女が伏黒と共に伏黒家の墓を訪れるシーンにある。見た途端彼女の服装に違和感を覚えた。
家入硝子があんなにふんわりしたワンピースを好んで着るだろうか?
私の目から見れば、あれはどう考えてもマタニティ喪服だ。さらにその後、吸っていたタバコを箱ごと捨てるシーンが続く。伏黒家を含む多くの一族が眠り、その子孫たちが守ってきた墓地においてだ。どう考えてもそうでしょ。

というわけで、この解釈は私の中ではもはや既成事実であり、これが【なぜ乙骨は当主代理なのか】につながっていくのである。

連載が終わって

2025年10月現在のお話です

呪術廻戦の連載が終わり早一年。コミックスで後追いしていた私の場合、ラスト30巻を読んでから10ヶ月近くが経つことになる。あの時の感動やうれしさ、悲しみ、喪失感がごちゃ混ぜになった気持ちは、今も心の中で疼いている。

コミックス最終巻で追加されたエピローグ4編については、正直なところ無かった方がよかったと思う。読者にその後を委ねる形が私の理想だから。エピローグ裏梅は本編の前日譚なので除外するとして、釘崎野薔薇も彼女のバックグラウンドに関わる話なのでむしろ前日譚に近い。小沢優子は主人公虎杖悠仁のその後がやんわりと描かれており、今後の展開を暗示するものとなっている。この3編は作者から読者へのプレゼントとして受け取ることもできたが、問題はパンダ。兄と姉の核を失ったパンダのその後が描かれていることは確かだが、連載が決まっていたと思われる新たなる展開への布石であることは明らかで、私にとっては後味の悪いエピローグとなってしまった。

本編の終わり方については賛否両論あるだろうが、個人的にはハッピーエンドと捉えられるあの形でよかったと思う。伏黒恵の最後は決まっていて、虎杖・伏黒・釘崎・五条のうち1人が死ぬか1人だけ生き残るかどちらかだったという作者の言葉を信じるならば、あの選択がベストだった。生き残った伏黒が、すべての罪を背負い独りぼっちで戦い続ける姿など誰が見たいと思うだろう。

さて、ここからが本題。(遅すぎ)
私が一番気になったのは新宿決戦で決着がついた後の日常が、あまりに日常だったこと。平和すぎやしないか?
連載中で一番驚いたのは、呪力や呪術師について米国を筆頭とする大国が知るという大風呂敷?を広げてしまったことだ。実際、死滅回遊には米軍や他国からと思しき軍隊が派遣されストーリーに大きな影響を与えている。呪力という “人類史上最もクリーンなエネルギー” を求める大国によって、日本が大混乱に陥っていてもおかしくない状況だったはず。映画『マトリックス』のように管につながれ呪力を吸い取られる日本人たちの姿までバッドエンドの候補として考えていた私にとって、かの平和な日常はかなり拍子抜けだった。

そこでだ。
そこで登場するのが当時放送されたテレビドラマ『全領域異常解決室』だ。見ていなかった方には申し訳ないが、簡単に言うと「日本には今でも八百万の神々が存在していて人々を助けている」というもの。神々は神の宿った人間から神に関する記憶を消す能力を持っていて、一般の人間の記憶の一部も消せるという設定で、この能力を使う呪文が 事度(ことど)を渡す であった。
これだっ!
呪力のことを知った者たちは皆 事度を渡された のだ!
ドラマに結構ハマっていた私は一も二もなくこの説に飛びついた、というよりすがった。

こうして私は少しだけ枕を高くして眠ることができるようになった。(ウソ)